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戦争にはあらゆる人が協力すべきとあって、女性画家も「女流美術家奉公隊」結成。親に息子を戦場へ出す後押しも

 日中戦争の泥沼から抜け出せないまま、仏印進駐に伴う石油禁輸をばねに飛び込んだ太平洋戦争。中国で鍛え、準備万端で臨んだ日本軍は当初、破竹の勢いで勝ち進みますが、それも1942(昭和17)年のミッドウェー海戦、1943(昭和18)年2月のガダルカナル島撤退など、次第に敗勢に傾いていました。
 世間にはまだ発表されていないガダルカナル島撤退と時を同じくして、陸軍報道部の指導で1943年2月25日、洋画家の長谷川春子を委員長として総勢50人の女流画家による「女流美術家奉公隊」が結成されます。3月には早くも東京で「女性美術家奉公隊」展を開き、同年9月、「戦ふ少年兵美術展」を東京の新宿三越を皮切りに、神戸大丸、大阪大丸、京都大丸と巡回します。こちらが、その会場で販売された絵葉書です。巡回はさらに各地で続き、1945(昭和20)年1月16日の浜松会場まで、1年4か月にわたって行われました。陸軍と毎日新聞の後押しが物を言いました(「女性画家たちと戦争」より)。

各8枚入りの2種類を入手
タトウを開くと、隅に「女流美術家奉公隊」の名が。なぜ前面に出なかったか。

 内容は、防空、航空、陸戦、戦車、通信など、多様で、この年の前半に陸軍が大いに協力したことは明らかです。と同時に、この時期、既に題材に困らないほど、少年兵が志願していたという事実も示します。太平洋戦争開戦から2年も経っていない時期です。

さまざまな画風で、題材も豊富。前線に出向いた可能性がある絵も。
散髪、食事といった軍隊生活の描写もあります。
飛行兵と戦車の点検

 少年飛行兵は、一番求められていたのでしょう。絵葉書にも目立ちます。そして力強さを感じさせる戦車も、少年の気持ちを引き付けるでしょう。

少年飛行兵、防空の訓練、そして整えられた兵営の様子

 飛行兵のほかに、陸軍が責任を担っていた防空への従事も目立ちます。この少年兵展が、奉公隊の実質的に国家の意思に沿った活動の最初の大きな展開でした。会場がデパートや学校になっているのも、特に母親に立ち寄ってもらうことを意識し、親たちに子どもを戦地へ送り出す意識を高めさせる狙いがあったとみられます。
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 戦時下では、文学も美術も、とにかく戦争に協力です。あらゆる物資が不足する中、画材も優先的に割当てられ、それが目的で参加した画家もいたということです。奉公隊は、さらに勤労奉仕も行ったほか、1944(昭和19)年3月の陸軍美術展に「大東亜戦皇国婦女皆働之図」を共同制作で出展します。「春夏の部」と「秋冬の部」が現存していますが、実際は日本画の1枚を含めた3部作であったとみられます。
 「春夏の部」の裏面の製作意図によりますと、「今や決戦決勝の機せまりたる時皇国の婦女が銃とる男達にかはってあらゆる部門に皆働する情況を合作によって後々の記録の一助にもと集成描写」したもので、女性の戦時活動状況や服装などは戦時下のそれの確実な描写をしたとしています。

 実際、女性に課せられたものは普段に一層倍するのが、戦時下の実情でした。男子の就業禁止職業も決められ、頼るは子どもと女性となっていたのが、この時期だったことを、確かに奉公隊の記録が伝えています。
 なお、この奉公隊の話をまとめた「女性画家たちと戦争」(𠮷良智子・平凡社)から2023年7月、発売されました。実に良い参考書となりますので、この時代の女性画家を取り巻く雰囲気や学習環境などとともに、ご一読をお勧めします。

「女性画家たちと戦争」

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信州戦争資料センター(まだ施設は無い…)
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