戦時下、ビールは共通商標に変更ー配給円滑優先、共通価格で銘柄は無関係に
戦前もビールは日本人に親しまれ、複数の会社が販売を競い、長野県でもビール原料のホップの栽培が現在の須坂市や近郊で盛んでした。しかし、1937(昭和12)年の日中戦争開戦に続き、1939(昭和14)年には第二次世界大戦が勃発。このあおりで政府は悪性インフレを防ぐため、同年9月18日の価格で商品やサービスなどの価格を停止させる価格等統制令(9・18ストップ令)を、前年に成立させた国家総動員法に基づき10月に公布し、その後生産された商品はいずれも公定価格を設定。ビールも1940(昭和15)年には公定価格が決められています。
ビールは1939年の生産量を最高に、燃料など物資の不足で生産量が減少、1940(昭和15)年に東京、横浜、川崎で家庭用ビールの配給制(配給割当・有料)が実施され、太平洋戦争突入後の1942(昭和17)年6月以降、全国で配給制(有料)が導入されます。
また、ビールの場合、当初は都市や地方別の公定価格が設定されていましたが、太平洋戦争突入後の1943(昭和18)年4月から、全国単一の公定価格となりました。そして配給区域がビール会社の手を離れて効率優先となっていたこと、単一価格になったことなどから、各社ごとの商標は不要として、5月には共通商標が導入されます。横流しを防ぐ狙いで、当初は「家庭用」「業務用」「価格特配」といった区別するラベルが使われます。
やがて、そうした区別をつけるのも手間だったのでしょう。同年中には、区別のない商標に変更されています。
商標が統一されてしまったので、ビール瓶も交ぜて使っていて、銘柄の見わけは付かなくなっていました。
こうした身近なものの変化が、大本営発表よりも、信頼できる戦況の変化を伝えていたのではないでしょうか。それでも酒税は重要な国家予算なので値上げを繰り返しながら終戦まで生産が続けられています。ただ、1945年の生産量は戦前最高の1939年に比べると4分の1になったということです。
そして統一商標や配給割当は戦後もしばらく続き、自由に出荷できるようになって、商標も復活するのは1949(昭和24)年12月になります。
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会社は自由に物を作り宣伝しライバルと競争する、消費者は好みのものを選び自由に飲める。それだけといえばそれだけのことが、いざ戦時下となると無理になる、という当たり前のことを、忘れないでおきたいものです。
(麦酒酒造組合・大藤孝雄氏の1975年の「ビール業界の歴史」、各社ホームページなどを参考にさせていただきました)
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