太平洋戦争末期、特に1945年4月以降、米軍は「紙の爆弾」を大量にまきましたー政府が報道を禁じたポツダム宣言も
太平洋戦争も1945年、沖縄戦の先行きが見えてきたころから、長野県はもちろん、全国各地に米軍は「紙の爆弾」、いわゆる「伝単」をまきまくります。今回は、少しずつ収蔵してきた伝単をご紹介します。
有名なのが爆撃予告伝単で、これはいくつかの種類があったもののうち、長野県内にまかれたものと同じデザインのもので、デッドストック品とみられます。もし避難させることができれば、それだけ実際の空襲より生産などに悪影響を与えることができますし、避難しなくとも人道的な対応をしたと言い張れるようなものです。長野県もこれがまかれた後、長野市と上田市が米軍艦載機の空襲を受けて、分かっているだけで50人近い人が亡くなっています。
マリヤナ時報もいくつか種類がありますが、こちらでは沖縄の戦局に加え、米軍中将の戦死も明らかにしています。こうした工夫が信ぴょう性を与えたでしょう。ちなみに、同じものを長野県木曽福島町(現・木曽町)の人が東京で勤労動員の学生だったときに拾い、憲兵が近づいて来る気配で四つに破いて靴に隠し、後で読んだとか。
当時、伝単は拾ったら中身を読まずに警察へ届け出よとなっていました。これに対し、終戦間際の信濃毎日新聞はコラムで「書いてある内容が嘘だというなら、堂々と反論すれば良い。伝単はおおいに読んで、論破すべし」といったコラムを掲載しています。中身が本当の事であることを承知した上での、当局への当てこすりを掲載する意地を見せています。
伝単も拾ってもらわなければ意味がない。というわけで、こうしたお札スタイルのものが登場しました。文面は3種類ほどあったように記憶しています。
日本の指導者を非難することで、日本人の反戦意識に訴えようとしたもの。そうした文言の宣伝文はいくつもあるが、民衆を動かすには至らなかったのは、当時のお上体質日本教育からだろう。そういう意味で、教育勅語の中身ではなく、天皇を信奉させる教育勅語奉読の儀式が役立ったとはいえるでしょう。
軍部の決断による無条件降伏で、一般国民は終戦を迎えられるとし、日本人の抹殺や奴隷化を意味しないと説明しています。これは、ポツダム宣言にも通じるものです。
政府がどれだけ情報を統制しても、国民には皆分かっているんだぞと圧力をかける狙いもあったでしょう。そして8月14日にポツダム宣言受諾決定、9月2日に降伏調印で、長きにわたる戦争が終わりました。満州事変から数えると14年、日中戦争からでも8年という、長期の戦争で、日本の主要都市は壊滅、産業は破壊され300万人が死亡。一方、日本の対外戦争の犠牲者は、その10倍ともいわれます。人的被害でなくとも、産業破壊、資源収奪、インフレなど、アジア各国に与えた影響は深刻なものであったこと、忘れてはいけないでしょう。
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