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長野県佐久市が沖縄県糸満市の戦跡整備ー女学生救った小池軍医の縁だが、沖縄側の視点も大切にと案内文練り上げ
2025年1月31日付信濃毎日新聞は、1面で「佐久市『糸洲の壕』整備完了」「沖縄・糸満で記念式典」などとの見出しで、長野県の佐久市が費用を支出して沖縄県糸満市の沖縄戦跡「糸洲の壕」の入り口付近を整備し、両県関係者がその完了式典を開いたという記事が掲載されました。「糸洲の壕」は、沖縄戦の組織的な戦闘が終了するまで野戦病院として使われた壕です。その指揮官だった小池勇助軍医少佐(死後中佐)が現・佐久市野沢出身の縁でつながった整備でした。
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小池少佐は、最初は沖縄の第24師団山3487部隊小池隊(第二野戦病院=豊見城市の壕)の隊長として病院の指揮をとっていましたが、米軍が1945(昭和20)年4月1日に沖縄本島に上陸、激戦の中、5月27日に後退して新たに野戦病院を設けたのが糸洲の壕でした。小池少佐は沖縄戦の組織的抵抗が6月23日に終了すると、27日に野戦病院を解散させます。そして特に積徳高等女学校の女学生25人の「ふじ学徒隊」に対し「生きて帰りに親に孝養を」「戦争の様子を伝えるように」と鰹節と罐詰を与えて帰還させ(25人中22人生還)、自身は隊員に敵への攻撃を命じたのち6月28日、自決されました。激戦中に無理に解散させず、戦闘が一段落しての解散で生徒たちの多くが生き残りました。
これまでの信濃毎日新聞の報道によりますと、佐久市では小池少佐の母校野沢中等学校の後身である野沢北高校、同市内の野沢南高校などが沖縄修学旅行の事前学習で小池少佐のことを調べたり、地元の遺族会の慰霊式に参加するなどして、小池少佐を一つのつながりとして沖縄戦のことを学んできました。ただ、小池少佐ゆかりの糸洲の壕の入り口は周囲が畑で駐車場もないことから、地権者の意向もあって2019年ごろから立ち入り禁止になっていました。語り部のできる元女学生も亡くなるなどして、糸洲の壕での戦争の記憶継承ができない状態になっていました。
そんな中、佐久市は糸満市と連絡を取り合い、修学旅行などの平和学習で再び見学ができるようにと、糸洲の壕の底に下る階段への手すりと滑り止めの設置、案内看板の設置を行うこととして、2024年度の予算に763万円の経費を盛り込みました。予算案を計上した当時、佐久市の柳田清二市長は「女学生の思いを受け止めるのが私たちの使命」としています。予算案は議会を通過し、草ぼうぼうだった入口は整備され、この1月16日に案内看板が完成したばかりでした。階段は50段ほどで、下りると大人が30人ほどは入れそうな広さで、さらに進むと薄暗くなり、地下水が奥に向かって流れ込んでいるということです。下写真の図でみると、ちょうど数字1の小池少佐がいたあたりが、その広い場所なのでしょう。
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糸洲の壕の式典があった日は、同市の平和祈念公園にある、沖縄戦で戦死した約1300人を含む55,000人余の長野県出身戦没者の慰霊碑「信濃の塔」で、長野県遺族会による追悼式と慰霊祭もありました。遺族や知事らが出席し、黙祷や県歌「信濃の国」の斉唱などを行ったということです。
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2025年2月18日付信濃毎日新聞の企画記事によりますと、佐久市の柳田清二市長は現地での記者会見で「沖縄には日本軍に対して複雑な感情を持つ人がいる」との沖縄の新聞記者の指摘を受けたとありました。
佐久市の側から見ると小池少佐は女学生を助けた人という評価になりますが、同時に、現地においてはこの壕も元々は住民が使っていたこと、小池少佐も兵隊には最後までの戦闘を命じていたことなど、大日本帝国軍人としての側面も無視できないことなのでしょう。市長は整備に糸満市の協力を得られ不戦の思いで一致したこと、小池少佐にも「さまざまな面からの言動や言葉があり、その言葉で学生22人が生還した事実がある。そのことを知ってほしい」と返答したということです。
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このため、案内看板の文案を練った長野県伊那市出身の伊藤純郎筑波大学名誉教授も、この佐久市側と沖縄側の視点の違いを考慮して客観的記述に努めたということで、訪れた人に「自分なりに解釈し、問い直してほしい」としています。
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中の人は以前、小池少佐と女学生たちの関係を中心として文をまとめました(関連記事・小池勇助軍医少佐)。生き残った女学生の中には、やはりたたきこまれた教育のせいか、生き残ったのが申し訳なく、証言をできるようになるまで数十年かかったという方もおられたようです。そんな教育を受けていた女学生を説得しただけでもすごいことだと思っていましたが、やはり、それはまた戦争の一面だけしか見ていないことに気づかされました。女学生を守ったと同時に、隊員には最後の攻撃を命じる、軍人としての使命と人間性のはざまで、最後は自決という形を取った小池少佐の姿は、戦争の複雑な実態を伝えているように思えます。だからこそ、戦争は回避せねばならず、戦時体制を招いてはならないのです。
2月18日付信濃毎日新聞に掲載されている案内板の要旨では、最後にこうありました。「沖縄戦の歴史を語り継ぎ、戦争の悲惨さや命の尊さを未来に語り継ぐことは、現代の私たちにも託されている」と。微力ながら、また別のアプローチによって、戦争と戦時体制を伝えていくことが、やはり中の人の続けるべきこととあらためて思わされるのでした。
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