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大平洋戦争下、南方からの石油輸送が途絶ー松の根を使って飛行機を飛ばせ!

 太平洋戦争末期の1944(昭和19)年から翌年にかけて、日本のあちこちで松の根を掘り出し、松の脂分を乾留して「油」にする作業が行われました。「ドイツでは松の根から飛行機の燃料をとっているらしい」という情報に本気で飛びついた軍部が音頭を取った増産運動でした。
 「陸軍燃料廠ー太平洋戦争を支えた石油技術者たちの戦い」(光人社・石井正紀著)によりますと、発端は1944年3月、ベルリン駐在武官から軍令部(海軍)宛ての電報が届き、その内容が「ドイツでは松から採取した油で航空機を飛ばしている」というものでした。海軍はすぐに調査を始め海軍関係のほか林業試験場なども加えて検討し「松根油からのガソリン生産計画は可能である」とし、しかも本土の年間消費量の3分の1ほどの採油が推定できるというものでした。
 そして計画には陸軍、農商省、内務省も加わり、10月20日には最高戦争指導会議で承認され、農商省が10月23日の次官会議で「松根油等緊急増産措置要綱」をまとめて、各府県知事を通じて松根油の生産活動が始められました。こちら、その当時のポスターです。

石油搬送が不可能という現実を直視して強引に始まりました

 ポスターは色彩豊かで、なかなかのものです。松の根を掘り返しているのが女性と子供のような青年という図柄も、当時の労働力の国内事情を映している感じがします。

女性と青年らしい

 また、ポスター上部には日の丸の入った爆撃機を入れています。爆撃機は、防空ではなく攻撃の意思を表して、臣民を鼓舞しようとしたのでしょうか。しかし、これから本格的に空襲の日々を迎えることになった臣民の目には、爆撃の合間を縫って作業せよという感じにとらえられるようになったかもしれません。インターネット上では、もう一つ別の図柄のポスターを確認しましたが、こちらも爆撃機が主役でした。

双発の爆撃機の編隊を飛ばす意気込み

 さて、先の要項では、第一条・方針として「皇国決戦の段階に対処し山野の随所に放置せられある松根の徹底的動員を図り乾留方法に依る松根油の飛躍的増産を期するは刻下極めて喫緊の用務なるを以て、皇国農山漁民の有する底力を最高度に結集発揚し以て本事業の緊急完遂を企図し皇国戦力の充実増強に寄与せんとす」(原文カタカナをひらがなに直しました)とあり、第二条・措置で「松根及松根油の生産は地方長官の責任制とする」(同)とし、農会などを通じて実行させることとしました(地方長官=知事)。

 松根油の作り方は、まず松の切り株を掘り、これを割って乾留釜で熱し、出てきた蒸気を冷却することで得られる液体の油分を回収します。これが「粗油」です。これを第一次精製工場で軽質、重質油に分け、軽質油を第二次精製で水素添加して航空ガソリンにする、というのが机上の理論でした。そして、この最後の工程が可能なのは徳山などの海軍燃料廠だけでした。(前掲書)

 計画では、1944年度の粗油の生産量を9万キロリットル、1945年度は30万キロリットルとし、先ほどのポスターも作って生産を喚起します。当時の信濃毎日新聞を見ますと、各地で農閑期の冬場に一斉に取り組んでいて、次々と割当目標を達成との記事が目に付きます。しかし、肝心の鉄の乾留釜の設置が遅れ、さらに釜が据えられても粗油を入れるドラム缶が届かない、ドラム缶が入手できても、今度は輸送できないといった、八方塞がり。

 特に輸送の段階でつまづいている投書が、1945年8月12日の信濃毎日新聞に掲載されていました。冬に掘った重い松根を県道まで出したのに野ざらしにされているとし、通り過ぎる空の貨物自動車を利用できないかーというもの。釜にすら、たどりついていません。また、ここには繊維製品の素材として子どもたちが一生懸命剥いた桑の皮も輸送できないまま、飯田駅の貨物ホームで「たい肥」になってしまったという嘆きも載っています。鉄道の輸送能力も押して知るべしでしょう。

1945年8月12日付信濃毎日新聞の投書欄「銃眼」

 一方、少しでも完成品はできたのでしょうか。前掲「陸軍燃料廠」によりますと、数字的な裏付けはないものの、徳山の第三海軍燃料廠で生産された航空ガソリンの量は500キロリットル程度だったとされています。そして、これら燃料廠も敗戦までには空襲で壊滅状態になっていて、ろくに生産はできなかったとみられます。ましてや、日本の技術では普通に石油から性能の良い航空ガソリンとなるように水素を添加することが一定程度まではできても、米軍ほどの高品質なものにはできていませんでした。松根油が順調に進んだとしても、実際にどこまで使えたかは怪しいものです。

 長野県の上田小県地方でこの松根油作りや松脂を採取して同様に活用しようとしていた事実を発掘、研究してきた「ヤマンバの会」と「上田小県近現代史研究会」のブックレット「戦争遺跡 松の木は語る」(上田小県近現代史研究会)に松根油を使った現場の証言が掲載されていました。
 1945年4月から海軍上等兵機関長として千葉県館山航空隊で航空機の整備と車庫長をしていた遠山裕三さん(現・上田市)の証言によりますと、「5月ごろ『松根油』と書かれたドラム缶三本(600リットル)が2回ほど配られた。それを3000リットルの地下タンクにあけガソリンと混合し、戦闘機紫電改などに給油した。『こんなもんで飛ぶのか』と思いつつ、上官の命令に従った。整備兵が試運転した後で飛んだから特別問題はなかった」「秘密ではなかったが、混合したことは現場の数人が知るだけ」としていました。
 ただ「陸軍燃料廠」では、松根油だけでは自動車エンジンを始動させられず、始動させた後に切り換えたものの燃料としての安定性に欠けたとしており、やはり松根油単独では使えず、石油が不可欠な状態でした。
 結局は、壮大な労力の消費に過ぎなかったということになります。ここでも、先の要項から感じられるように、理論ではなく精神を過大に見積もること、それで「自分は戦争をやっている」気分を満足させるだけの効果にとどまったようです。
           ◇
 ところでこのポスター、実は、かなり傷んだ状態で入手しました。女性の顔や飛行機のエンジン部分など、破れて下手な裏打ちでずれており、中の人が業者に修繕を依頼し、先にかかげた写真のように修復されました。業者によると、穴などの補修をするため一度、和紙で裏打ち。そこに補強のためさらにメルトペーパーでもう一度裏打ちして完成したとのこと。送料など含め、15,000円かかりました。しかし、貴重な品を後世に残すためです。誰かがやらないと。せっかく高額で手に入れたので補修にも投資し、みなさんに成果をお見せできるようになりました。

 一方で、このポスターを以前ブログで紹介したところ(現在は写真を削除)、無断で写真が転載され、これらを元にしたものがネット上で確認されました。もちろん、著作権はありませんが、こうした苦労へのただ乗りは気持ちよくないですね。せめて、きちんと声をかけてほしいものです。

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