一時感情過多、でも自意識過剰じゃないからね。たぶん。いや、そうかも。
こども学びラボ(@kodomomanabilab)の記事から、書こうと思ったこと。
こども(に限らずだけど)の相手をしていると、いらいらしたり、怒っちゃったりする人って少なくないと思う。それを「一次感情」と「二次感情」から説明してくれている記事。
ワタシは生徒には素直に一次感情を伝えられる。
「あっ、今のそれカチーンってきた」「それ言ってくれて救われるなー」「その態度からはキミのこういうメッセージを受け取っちゃうんだけど」「これ、誰得なんだろうね」「どうすればお互いハッピーになると思う?」。共感はともかく、お互いに「めんどくさいことの回避」「とりあえずでも最大利益の確保」方向での同意、合意形成ができるから。
でも、大人と話すときには、そうはならないんだな。なんでだろう。幸いにも、近くには「二次感情」を生徒や同僚にむけている人はそんなにいないはず。みなさん紳士的でそして、思いやりに溢れている(と信じたい)。ただ、ふつーの人は「一次感情」を、そうそう開示しないものでもあるので、(そりゃそうだ、店員さんとか、お客さんが「商品がなくてがっかりです」とか「いつも寂しいです」なんて言い出したら困るもの)それをまき散らしていたらドン引きか冷たく無視されるわけで、「愚痴」ってそれが溢れ出ているものと考えてもいいかもしれず、あれ? 自分もやたらとそういう気持ちをダダ漏れさせていることになってるのかも?
愚痴をこぼす、こぼされる間柄、距離感てのはパブリックなそれよりも少し近い。その多くはどうにもならないことだったり、仕方のないことでもあったりする。言っても詮なきこと。だけど聞いてほしい。聞いてくれればいい。
だが、ワタシはそのへんの空気が読めないことが多くあって、まともに取り合って、解決策を本気で考えようとしちゃったりする。そんなこと求められていないのに。それでやっぱり思い通り、解決できないことだからそれはイライラ「二次感情」モードに切り替わる。
始末が悪いことに、実はそのひとの「愚痴」に同意や賛意がなくても、そのモードに入ってしまう。「生徒が話聞かないで寝てばかりいる」「ICTなんてやらなくていいでしょ」、そんなもん「一万歩譲って共感+でも不同意」で華麗にスルーすりゃいいのに、できないんだな。
もちろん、「しごと」上ではそんな一次感情には蓋をして、たぶん当たり障りのない言葉ばかりを使っていくわけなのだが、それでは立ち行かないことに気づいた。
「当たり障りのある」コミュニケーションが実は必要。ワタシは正しい答えのわからない仕事ばかりしているので、多くの人から批評を得ないことには、妥当解を得ることができず行き詰まってしまう。どこにも「当たらない」まま言葉が消費されていくのではドン引き無視と同じ状態。で、そしてそれは一次感情をベースとするコミュニケーションによるものなのだ。
そういう意味で「壁打ち」、つまり一次感情をベースに妥当性や比較最適解を探っていく作業に付き合っていただく機会は貴重。みなさま、ありがとうございます。
こういうモード切り替えってすごい疲れる。ちょっと考えたのは、発達段階が誤作動起こしてるんじゃないかってこと。エリクソンのやつね。ひょっとして「自己統合vs絶望」→こんなはずじゃなかった”老年期の絶望”に一足先に行っちまってるんじゃないかとか、「親密vs孤立」→俺はぼっちだ愛が欲しい”初期成人期の枯渇”に回帰してるんじゃないかとか、三連休の初日から何やってんだ、オレ。
元記事と全く離れたメンヘラネタになってしまいました。これ、Facebook からnote の方に移します。で、結論もそっちにつけます。
え? 結論ですか? そうだ、合コンしよう(バカ)。
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