遠すぎず、近すぎず、でも届く
最近はもっぱら技術的なことを考えずに写真を見るようになりました。一段階段を登った、いや登っている最中だと思います。
3年半とあるスタジオにいたことがありまして、いわゆる『綺麗な写真』を撮る仕事をしてました。そこで学んだ技術面、人としての行動はちゃんと今に生かされています。いい時間を過ごしたなと感じます。一方で、目線の偏りというものはどうしても身についてしまったようです。
『綺麗な写真』を撮る仕事は、水平垂直、表情、ライティングそのひとつひとつが基準点を上回っているか?を第一とます。その上でカメラマン一人一人のらしさをのっけていくというものです。それは技術的なことでも、人間的な魅力でも。
ただ第一に来るのが採点基準という見方ですので、どうしても写る人の『らしさ』を平均化してしまう恐れがあります。実際に『この子らしくて・この人らしくて写真として素敵だ』と思っても、衣装の乱れやアイキャッチが入っていないなどでボツにすることは多々ありました。
また、ポージングという観点があるのも独特だと思います。これもまた写真を均質化する要素だと感じます。特にスタジオ撮りの753やウエディングは衣装の乱れを無くし綺麗に整えた状態で撮るため特定のポーズ・構図が教科書化される傾向にあります。ただ、これはいい写真(ここでは皆さんが見たことある・評価しやすい・されやすい写真)を時間内に正確に撮ることを目的とし構築されたもので一概に均質化が悪いとも言えないのです。その場の最善を尽くす目線だとポージングや構図の固定化はチーム内での共通認識が上がり「現場に余裕を、被写体の表情をより引き出すことへの集中を」と繋がりますゆえ。(※もちろん753やウエディング共に自由度が高い場合もありますが)
さて、この議論はどちらが良いかを考えると個人的思想や資本主義や社会性やらで人によっては〇〇派と平行線を辿ってしまうのでこの辺で。
話を戻すと、僕は今まで「綺麗かどうか」という目線が自分に染みついていたので写真の変化が技術面的思考になっていたと思います。向かうところ美的基準だけになる、もしくはそれが大多数を占める写真を目指しつつありました。これは別に悪いことではないのですが、何に向かっているかによっては方向性を変えるべきでしょう。
ある時
と写真家をしている、写真家を沢山見ている方に言われた時にハッとしました。
それに対して反論できなかった。でてくる言葉がありませんでした。ぐうの音も出ないとはこの事です。
(正直最初は、なんやこいつって思いましたけどね)
けどまあ痛い所を突かれたといえばいいでしょうか。
確かにもう少し写真に自分の表現や思考、ひいてはもっと大きなものをぶつけて撮れないかと考える時があり、というかずっと考えていたものの、その問いから逃げた結果がこれかと思いました。
最初は好きだから撮るに理由なんてないぜ。それ以上でもそれ以下でもないんだからと思ってました。
とわいえ、頭の片隅にいや頭の8割ぐらいをその言葉で埋め尽くされているので、その答えとなるものを色々探し始めます。
こういうのは素直な自分が思ったことにあるんじゃないか?と思い書いているノートを引っ張ってきました。
自分は気づいていたんだなと思いました。
が、やらずに分かりやすさに走ったと。
この一件以来、少々見方が変わってきています。
写真をするにつれて見てきた技術的な目線から降りて、考え方や見えないものを写すようにしようと。
普段見ているところから一歩引く、完璧な瞬間を狙わないなどなど。今までの自分と距離的にも精神的にも少し離れたところからシャッターを切るようにしてみてます。だから距離や時間についての思考が目につくようになりました。
こんな風に考えるようになってよかったと思うのが、濱田英明さんの展示“Resemblance of time”と出会えたことでした。神戸へ夜行バスで行き展示だけ見てその日に帰るという旅でしたが間違いなくいい時間でした。これについても書き出すと止まらないのでこの辺で。
今自分の写真は、変わってきている感じがします。少しずつ。
意識しているのは
『遠すぎず、近すぎず、でも届く』写真。
好きだからこそ距離を取る。それは一歩引くという物理的な距離以上にその人に近づきすぎない心持ちでもあります。まだうまくはできないけれど、でもこれをやらずして自分の写真は何かを届けるにはまだ足りない。
だからちょっとずつ。
そして変わることを恐れずに。
もしかしたら、これからも撮ることに明確で強烈な理由はないのかもしれません。
しかし、考えたい『僕は何を写して、何を育むのか』。
24.11.21