子どもの数が4倍に。多世代・多家族が“心地よく過ごせる宿”って? 老舗旅館「扇芳閣」5代目が大女将・女将と語り合ったこと
伊勢志摩の鳥羽にある扇芳閣(せんぽうかく)は、70年以上の歴史を持つ老舗旅館。
2020年に5代目を継承した社長のせんとくん(谷口優太)は、コロナ禍を機にこれからの旅館がどうあるべきかを模索し、旅館のリブランディングとリニューアルを進めました。
「世界中の子育て家族から、最も愛される上質な旅館になる」をビジョンに掲げたリニューアルは、2年以上かけた大規模なプロジェクトに。
多世代が家族旅行を楽しめる「スイートルーム」をはじめ、さまざまな席タイプが充実したレストランや子どもも楽しく過ごせるライブラリー&キッズスペースが誕生し、宿泊客だけでなく地域の家族にも愛される空間へと変貌を遂げました。
もともとリピーターが多い宿として知られていた扇芳閣ですが、特に「スイートルーム」のリニューアル以降は、子育て世代を中心に3世代旅行や多家族旅行がどんどん増えていきました。年末年始、還暦祝いなどの旅行もご好評をいただいています。
今回のnoteでは大女将と女将と一緒に、せんとくんがリニューアルを振り返ります。3世代で家族経営する扇芳閣が大切にしていること、お客さまから寄せられる声など現在の様子を本音で語りました。
リニューアルを経て、宿ではどんな景色が生まれているのでしょうか?
多世代の宿泊客が増え、子どもの数は以前の4倍に
——リニューアルを経て、最近はどのようなお客さまがメインで宿泊しているのでしょうか。
女将:リニューアルしてからは、今までになかった3世代旅行が大幅に増えました。おじいさんやおばあさんといってもお若いですし、90代の方でも元気な方が多く、ひ孫をあわせて4世代で来られる方もいらっしゃいます。
コロナ禍では離れた家族に会うことがなかなかできなかったので、寂しい時間を過ごされていたんだなと思います。
宿では久しぶりにみんな揃って再会を喜んだり、お孫さんの成長を実感したり……。リニューアルでお子さまが遊べるスペースも整えましたので、元気に遊ぶ姿をおじいちゃんおばあちゃんが見守る。そんな微笑ましい姿もよく見られますね。
大女将:おじいちゃんおばあちゃんがお孫さんを抱っこしてあやしたり、その間に普段忙しい若夫婦さんがゆっくりご飯食べて過ごしたり...…。家族の絆を確認しあう時間を過ごされているようないい雰囲気がこちらにもすごく伝わってきます。
せんと:お誕生日や古希、喜寿、結婚記念日などのお祝いで来られる方も多いですね。
毎日いろんなお客さまのお祝いで女将は館内を駆け回っています(笑)。
女将:チェックインが終わり、お客さまがちょっと一息されたところで、「今日はどのようなことで来られたんですか」と必ず伺っているんです。
そうすると「お伊勢参りで来ました」とか「お誕生日で」などと教えてくださるんですね。
お祝いで来られた方にはささやかですが、私の方からも記念の品として手書きのメッセージを添えた色紙をお渡ししているんです。10年ほど続けておりまして、これまで約2000名の方にお渡ししてきました。
中には「またもらいに来ました」と言ってくださるお客さまもいらっしゃるんです。それがうれしくて、私にとって「続けよう!」というモチベーションになっています。
——以前は、ファミリー層とは違う方が泊まられることが多かったのでしょうか?
せんと:そうですね。会社や老人会でお伊勢参りをされたり、議員さんが選挙の必勝祈願などで利用されたり、これまでは団体のお客さまが多かったです。
近年は市場的にも団体旅行が少なくなり、逆に家族や知人・友人と一緒に旅行をする個人旅行の傾向が強まりました。
扇芳閣では、コロナ禍のリニューアルを経て、お子さまの数がコロナ禍前の2019年から約4倍に増えましたね。
大女将や女将と進めた、30年ぶりのリニューアル
——少子化の時代に4倍はすごいですね。今回のリニューアルで「世界中の子育ての家族に愛される旅館」を掲げられましたが、どのようにそのビジョンが決まったのでしょうか。
せんと:扇芳閣がある伊勢志摩は、有名な観光地として知られている場所ではありますが、お客さまや人口が減るなかで、将来に備えて何とかしなければならないという危機感が常にありました。
コロナ禍をきっかけにその問題が一気に前倒しされて、旅館の経営者としてこれからの時代に求められる宿のあり方は何かを考えて、「世界中の子育て世代に愛される宿」を目指すことにしました。
せんと:「世界中の」という言葉が付いているのは、スケールか大きい方がいいかなと思った単純な話なんですけど(笑)。
ただ僕自身、大学時代や大学院でのMBA留学、新卒で入社したExpedia(エクスペディア)と、世界中のいろんなところに行かせてもらいましたが、旅行って国境を簡単に超えられるものだなと思うんです。
旅館は、日本にいながら世界中の人に向けた商売ができる。だからこそ“世界の方に愛していただけるような旅館”という目線を持ちたいと思いました。
——ビジョンを決めるに当たり、女将や大女将に相談することも多かったのでしょうか?
大女将:宿の方向性は、これからを担う世代が決めた方がいいと思っていたので、反対することはありませんでした。
とはいえ、“家族向けの宿”と掲げたからといって次の日からお客さまが全員ご家族に変わるわけではありません。今の時代に合ったおもてなしを考えながら、長年ご利用いただいているお客さまにも満足いただくことは大切にしていた点でしたね。
せんと:そうですね。引き続き団体のお客さまもいらっしゃるので、具体的なおもてなしは、女将や大女将の知恵を借りながら話し合っていきました。
—— 3人でリニューアルを進めていく中で、意見をまとめるのに苦労したシーンもあったのでしょうか?
せんと:それはしょっちゅうありました(笑)。
家族経営の会社によくあることかもしれませんが、後継ぎになると、これまでのものを全部一気に変えたくなるんです(笑)。別にこれまでが悪いというわけではないのですが……。
実は、扇芳閣は30年前にも大きなリニューアルをしています。その当時を知る女将や大女将にとっては、椅子ひとつにしても選んだエピソードがあり、思い入れも強い。
何を変えて、何を残すのか。時間をかけて話し合いながら決めていきました。
お客さまと地域に伝える「感謝」の心
——時代に合わせて変えていくこともありながら、扇芳閣として「これだけは変えずに大切にしている」ことはあるのでしょうか。
せんと:扇芳閣には「謙譲を以て人と交わり、初志の貫徹を期す」という言葉が創業から受け継がれているんです。
——「謙譲を以て......」どういう意味でしょうか?
せんと:「“おかげさまで”の気持ちを持ちながらお客さまと接し、抱いた志を貫いて達成する」。私たちが住んでいる本宅の横にある石碑にも刻まれています。
私自身、小さな頃からこの言葉の大切さをずっと教えられてきたこともあり、その精神性は時代が変わっても大切に受け継いでいきたいなという思いがありますね。
女将:伊勢志摩には200以上の旅館やホテルがありますが、その中から私どもの宿を選んでいただいたということはすごいことだと思うんです。
もちろん誰かに勧められたり、たまたま来られただけだったり、選んだ理由はそれぞれだと思いますが、それでも、今日この日に、扇芳閣を選んでいただいた。そのことに感謝する気持ちは常にお客さまにお伝えしています。
せんと:あとは「地域の人に支えてもらっている」ことの大切さも、小学生のときから言われ続けています。
例えば、扇芳閣までの道のりは途中に細い道があり、大型バスが通るときは片道交互通行になってしまうんです。
近隣の方もよく利用する道なのですが、うちのバスを先に通してくださることが多く、地域の方のご協力があって扇芳閣は商売をさせていただいているんだなと感じますね。
大女将:本当にありがたいことですよね。
地域のみなさまには、夏休みに自由にご利用いただけるプール券を配らせていただいたり、お正月の初詣に来られた方に無料で扇芳閣の温泉に入っていただいたりなど、日頃の感謝の気持ちを少しでもお伝えできればと思っています。
“第二の実家”のような宿、大人も子どもも楽しめる料理
——客室のスイートルームから始まり、レストランの改装、ライブラリーやキッズスペースなど、一歩ずつリニューアルが進んでいきました。この改装プランは、どのように話し合いながら進めたのでしょうか?
せんと:コロナ禍では一時期、県をまたいだ移動が難しく、帰省もできないような空気が流れていました。当時は県外ナンバーの車があるだけで後ろ指さされる雰囲気もありました。
そんな状況のなかで、家族で気にせず会える“第二の実家”のような空間が求められているのではないかと思ったんです。特に都市部にはそのような空間はなかなかないため、まずは多世代に向けたお部屋のリニューアルから進めました。
——コロナ禍で、多世代が過ごせるスイートルームの構想も一気に進んだんですね。
せんと:レストランのリニューアルに関してはどちらかというと、「旅館の抱える課題」が大きかったですね。
大女将の時代は、85部屋に30名ほどの仲居さんが働いていて、旅館の料理は部屋出しの文化でした。時代とともに仲居さんの数が減り、効率と満足度を両立させるためにも食事をする場所の整備が不可欠だったんです。
レストランは、現場を知っている女将や大女将に何が困っているのかをヒアリングしながら進めていきました。
——レストランを改装しただけでなく、料理も変わりましたね。
女将:料理に関しては、これまで以上に伊勢志摩や三重県のいいものを、素材の味を活かしてご提供するようにしています。伊勢海老やサザエ、ホタテなど伊勢志摩の豊かな海の幸をまるごと蒸し焼きにして旨みを封じ込める名物の宝楽焼や、松坂肉を使った陶板焼きやハンバーグなどにも力を入れています。
新たに目の前で調理するライブキッチンも誕生したので、朝食では焼きたてのフレンチトーストもご提供できるようになりました。
——以前に比べて、お子さまの数が4倍に増えたということですが、お子さま向けの料理もリニューアルされたのでしょうか?
せんと:お子さまといっても、離乳食の方から、大人と一緒のものを食べるお子さままで年齢に応じてさまざまです。
僕の息子もそうですが、2、3歳になると親と一緒のものを食べたがるようになるんですよね。お子さまのメニューはハンバーグやカレーなどが多くなりがちですが、それ以外にも蒸し野菜や鯛のお茶漬けなど、大人も子どもも楽しめる料理を増やしました。
あとは、お子さま連れの家族に話を聞くと、「どんな場所で食べるか」も大事なポイントだそうです。
家族にとって心地よい場所はさまざま。おじいちゃんおばあちゃんから赤ちゃんまで、誰と食べるかによって、小上がりがいい方もいれば、椅子とテーブルや座敷がいい方もいますよね。
しかし、一般的に旅館のレストランはあらかじめ席が決められていることが多いので、お客さまのニーズに応じて、食べる場所を選んでいただけるように宿泊プランを充実させました。
お客さまが求めることを一人ひとりが考える
——リニューアルによって、扇芳閣の空間もお客さまの層も様変わりしました。従業員のみなさんに何か変化はありましたか?
せんと:印象的だったのが、うちの従業員が外に夕食を食べにいかれるお子さま連れのお客さまに「スタイを持たれましたか。あそこのお店は確かスタイは用意していないと思うので、お持ちいただいた方がいいと思いますよ」とお声がけしていたことですね。
子育てしている人の立場になって、食事に必要なものをイメージし、近隣のお店の状況もインプットしながらお客さまにお伝えしていたことがすごく嬉しかったですね。
大女将:お子さまといっても月齢によって対応が全く異なります。
以前に比べて、お子さまが増えたことにはじめこそ戸惑いがあったと思いますが、最近では「生後何ヶ月ぐらいのお子さまだったら、この椅子を用意すればいいだろう」「寝ているお子さまにはクーハン(ゆりかご)を持ってこよう」など自分たちで先を読み、どうすればお客さまに喜んでいただけるかを考えて動くシーンが増えたと思います。
せんと:2024年の4月には10数年ぶりに新卒で2名採用したのですが、彼女たちの感性もいい刺激になっています。
例えば、浴室のドライヤーやシャワーヘッドなどは彼女たちから提案があって、今のトレンドや現場の意見を取り入れた結果、新しいものを採用しました。宿が大きく変化していくなかで、従業員にも新しい風を通していきたいと思っています。
扇芳閣ならではの「かぞく旅行」の時間
——もうすぐ夏本番。さらに家族連れのお客さまが増えそうですが、扇芳閣ならではのおすすめの楽しみ方は?
大女将:扇芳閣の裏山に大きなツリーハウスが完成したので、森を探検したり森林浴をしたりなど、自然に親しんでいただきたいと思います。
天気がいい日には裏山を登ったところにある約5000匹の黒めだかが泳ぐビオトープ「めだかの学校」から金刀比羅宮まで15分ほどのお散歩を楽しむ家族も多いです。
金刀比羅宮まで登ると伊勢・鳥羽・志摩が一望できるんですよ。館内に「ヒノヤマラボ」というカフェもできたので、コーヒーや軽食を買ってちょっとしたピクニックもおすすめです。
女将:夏休み中は宿で体験したことをお子さまに絵日記に描いてもらい、館内に掲示して後日ご自宅に郵送しています。
お子さまにとって楽しかったできごとはさまざま。キッズスペースのボールプールで遊んだこと。プールで泳いだこと。メダカを見たこと。森を探検したこと......。みなさんの絵を見て微笑ましく思っています。
夏休みの期間は、鳥羽の旅館組合で花火を打ち上げているので、その様子を描いてくださる方も多いですね。
せんと:最近は、別々で来られたご家族なのにお子さん同士が仲良くなって遊んでいる様子を見ることが多いですね。
チェックインの時にキッズスペースで遊んでいるうちに仲良くなり、食事やお風呂の時間でも一緒になり、翌日もまたキッズスペースで一緒に遊んだり……。
子ども同士で遊んでくれると親はちょっと気が楽になりますよね。ひと家族で宿に来たつもりが、滞在を通じて家族以外のつながりが生まれるのも扇芳閣ならではのことかもしれません。
子どもを通じて生まれた関係性は、どんなハード(空間)や遊びを用意してもかなわないなと思います。
——最後にお客さまへのメッセージや今後の抱負など、自由にひとことお聞かせください。
大女将:旅行に行きたいなと思ったときに、思い出してもらえるような宿であり続けたいと思います。そのためにも一日一日「泊まってよかったな」と思っていただけるよう、気配り心配りを大切にしていきたいですね。
女将:客室やロケーション、料理などハード面はもちろん大切ですが、気持ちで感動させることを大切にしているのが扇芳閣らしさだと思っています。
お客さまとの会話を通して「あの人がいるから、また会いたい」と思っていただける宿のひとつになれるようにこれからも頑張っていきたいと思います。
家族旅行でいらした方が、がんで余命宣告を受けたことを教えてくださったことがあります。しばらくして、「また来ました」とご家族でもう一度来ていただいたときは胸がいっぱいになりましたね。
——気配り心配りが、ご家族の旅の思い出になっていくんですね。
せんと:あらためて、多世代や多家族に楽しんでいただける宿として伊勢志摩で一番を目指したいですね。
ご家族のなかには旅行が苦手だったり、身体が思うように動かなくて外出が億劫だったりと、さまざまな事情がある方がいらっしゃるかもしれません。旅行したい気持ちはあるのに遠のいてしまった……そんな方にも、肩肘はらず家族のようなおもてなしができればと。
一言でいうと、そんな優しい宿でありたいですね。
我々も3世代で経営している宿でございますので、いろんな世代が楽しんでいただけるような取り組みを進めながら、これからもお客さまに寄り添っていきたいと思っています。
(取材・文:石原藍 編集:笹川ねこ)