第5回:第二次世界大戦後の世界の変化
【第二次世界大戦と米ソによる「戦後世界」の分断(1939年~1950年)】
第5回:第二次世界大戦後の世界の変化
第5回:【問い】
1.テーマ:戦後ヨーロッパの冷戦
・ドイツの降伏以降ヨーロッパを覆う冷戦は、何故始まり、どのように進んだか?
2. テーマ:東アジアの変動と熱戦
・日本の敗戦と米ソの対立によって、東アジアはどのような影響を受けて、どう変動したか?
3.テーマ:新しいアジアの誕生
・日本の敗戦と冷戦化の進行は、東南アジアにどのような変動をもたらしたか?
≪問題提起≫
1. ドイツの降伏以降ヨーロッパを覆う冷戦は、なぜ始まりどのように進んだか?
第2次世界大戦の戦後処理として、ヤルタ会談で国際連合創設、ドイツ管理体制、欧州復興政策を合意したが、最も紛糾したテーマは、ポーランド問題であった。
英ソが相互の政権樹立を意図して対立し、ローズベルトが譲歩し、自由選挙履行を条件にポーランド政権を承認した。
しかしその後のポツダム会談では、米国大統領に就任したトルーマンが自由選挙を実施しない「ポーランド方式」の東欧諸国政権樹立を拒絶し、米ソの対立が顕在化した。
スターリンの「資本主義諸国との共存が不可能であり、将来の衝突が不可避」とする演説を受けて、米国はトルーマンドクトリンと経済復興支援のマーシャルプランを提起した。
ソ連はコミンフォルムを結成し、「米国を中心とする帝国主義陣営とソ連を中心とする民主主義陣営に分かれた」とする冷戦開始を宣言した。
ソ連の欧米占領地区への損害賠償を巡る対立から、欧米は占領地域の通貨統合を断行したが、ソ連は西ベルリンへの陸上輸送を停止する措置で対抗し、「ベルリン封鎖」を断行、東西ベルリンを巡る緊張が激化した。
英仏は、欧州の安全保障に米国を引き込む狙いから、英仏間のダンケルク条約を基礎として、米国とカナダが加わる現在の「北大西洋条約機構(NATO)」の結成へと動いた。
2.日本の敗戦と米ソの対立によって、東アジアはどのような影響を受けて、どう変動したか?
東アジアは冷戦の第二の舞台であると同時に冷戦が最初に熱戦に発展した地域となった。ソ連は、日ソ中立条約を破棄して満州国と朝鮮半島北部を占領し、朝鮮は日本の無条件降伏によって36年にわたる植民地支配から解放された。
ソ連の一国占領を嫌った米国は、ソ連との北緯38度線を境に南北朝鮮を分割占領することを合意し、日本軍の武装解除に当たった。この分割占領は、朝鮮半島の南北対立を顕在化させ、ソ連の提案した臨時政府樹立を協議する米ソ共同委員会も機能しなかった。
米国の国民会議選出選挙に対して、ソ連が北朝鮮への入国拒否に対して米国は国連決議による南朝鮮単独選挙を実施した。南朝鮮には李承晩大韓民国政府が樹立され、北朝鮮には最高人民会議代議員選挙で金日成を首班とする朝鮮民主主義人民共和国が樹立されて、朝鮮は分裂国家となった。
北朝鮮は、ソ連の実験の成功、中華人民共和国との国交樹立を背景に38度線を越えて南侵し勃発した朝鮮戦争は、ソ連の支援と中国義勇軍の参戦を経て、開戦前の38度線に回帰する協定を以って停戦した。
朝鮮戦争の勃発と中国義勇軍の参戦は、冷戦下の熱戦となり、50年代以降の長期に渡る冷戦が構造化し世界とアジアの変動に大きな影響を与えた。
3.日本の敗戦と冷戦化の進行は、東南アジアにどのような変動をもたらしたか?
戦後の東南アジアにおける民族自決運動は、日本軍の東南アジア占領を契機に欧米による植民地からの独立運動として進められる一方で、中国共産党の内戦優位を背景に米ソ対立と中国情勢が複雑に絡み合う状況を呈した。
米ソの戦後の関心は、欧州と東アジアにあり、東南アジアには及ばなかった。米国はドイツと日本の経済復興を重視し、親米政権の擁立政策に転換し、英国も労働党政権下で主権委譲を進め、フィリピン、インド、パキスタン、ビルマ、セイロンが独立を果たした。
一方、戦前インドシナとインドネシアの宗主国であった仏蘭両国は、旧宗主権による植民地支配の復活を進めるとともに、米国の東南アジアへの中国封じ込め政策により植民地支配を排する最も激しい民族自決戦争が展開される場となった。
米国は、仏国がベトナムに樹立した傀儡政権を支持し、直接の軍事支援を開始した。また、マラヤへの軍事介入を続ける英国軍への支援とともに、ビルマ、タイ、フィリピン、インドネシア政府への経済・技術支援を進めた。
ソ連は、建国まもないベトナム民主共和国を承認し、中国はベトミン(ベトナム独立同盟会)への武器支援とともに軍事顧問団を派遣し、民族自決運動を支援して、50年代以降長期にわたるインドシナ戦争へと発展した。
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