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9.時代の変革期 ②
前回は、インターネットによる社会構造の変化を概観し、様変わりしてゆく今後の世界に、 「教祖のひながたは、ひながたと成りうるのか」という疑問を提起した。
そして、上の教祖伝の一文を読んだ時、確信したのである。
教祖のひながたは、どんな時代にも通用する尊きひながただーーーと。
軽率な思案かも知れないが、今回は、そう思った理由を述べさせて頂きたい。
◆
明治へと改元されたのは、立教から三十年の歳月が経った頃。
つまり教祖五十年の道すがらは、前半三十年が江戸時代であり、後半二十年が明治時代であった。
封建制の旧幕時代から明治の新時代へ、日本の歴史を通して、これ以上の変革が起こった時代は他にあっただろうか。
私は、さほど歴史に詳しい訳ではないが、日本史の中で、幕末から維新にかけての時代が一番面白いと思う。日本史ファンの方にとっても、この時代が一番好きだという人は少なくないはずだ。
では、何がどう変化したのか。
この問いに対して、端的に解答するのは難しい。変化が余りにも広範囲にわたるからである。
私たちが今、当り前のように共有している社会システムは、そのほとんどが近代以降に作られたものである。
義務教育、銀行、警察、図書館、国会、選挙などの制度や、自由や平等といった価値観まで、三〇〇年前には存在すらしていなかった。
もちろん、明治以降から現代に至るまでも、思想や慣習など、その他あらゆるものが幾多の変遷をたどり進歩してきたが、その基盤はやはり、現代との繋がりがあるため理解し易い。
一方、近代以前となると、生活様式や価値観の前提から大きく異なるため、現代とは隔絶した時代との感が深いのである。
◆
そもそも近代以前は、封建社会が主流であった。
王族や貴族、将軍や大名といった特権階級が存在し、その下に農民や奴隷といった身分が存在した。
人々は、身分に縛られているのが当たり前。
職業を決めることも、結婚相手を決めることも、個人に選択の自由はない。
すべて身分によって制限されており、どれほど腕のある人でも、生まれた家の身分が低ければ、立身出世は出来なかったのである。
封建社会においては、 「血」が社会システムの基盤であったと言えるだろう。
ところが、明治維新によって封建制度は崩壊した。武士の世は幕を閉じたのである。
欧米列強国と肩を並べるべく、 西欧の思想・文化を一気に取り込み、文明は開化されていく。ちょんまげを切り腰の刀を捨て、洋服を身にまとって牛肉を食べるようになったのだ。
中でも学問教育は、裕福な者しか受けられない特権的なサービスであったのが、学校制度が整っていくにつれて、広く一般庶民にも、学問知識を学べるようになった。
だんだんと 「自由」「平等」という概念が政治の土台となっていったのだ。
旧幕時代とは、世界がまるで違う。両時代の間には、実に大きな溝が存在しているのである。
◆
教祖がお通り下さったひながたの道は、こうした大変革期真只中であった。
前三十年を旧幕時代、後二十年を明治時代と、日本史上かつてない激動の時代を、丁度またいでお通り下さっているのである。
つまり、どんな時代であっても通用するひながたをお残し下さっているということではないだろうか。
私はここに、教祖のご配慮、親心を感じたのである。
現代を生きる私たちも、余りに激しい社会変化に対応できず、未来へ不安を感じてしまう時があるかもしれない。
しかし教祖は、既に激変の道中を通って下さっており、その通り方のお手本をお残し下さっている。私たちにとって、これほど心強いことはない。
しかも、お説き下さる理こそ一貫しているが、時々によって思想が移り行く人々には、言葉を変え、手段を変えて、得心の行くようお導き下されている。まさしく、いかなる時代にも当てはまるひながたである。
「世界は変わるから、古いお手本はもう通用しないのではないか」
と思っていたが然にあらず。
ひながたの道は、そう遠くへ行ってしまうようなものではなかった。
私たちの心一つで、ひながたはそばにある。
『稿本天理教教祖伝』 p99
同年九月には、明治元年と改元された。
(第五章 たすけづとめ)
R184.1.10
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