清水晶子さんは、「キャンセル」していない(私の妄想だそうです)。
これまで、『現代思想』にトランス女性を包括し、「『女』の境界線を引きなおす」ためにはどのような制度的な合意が必要なのかを検討する「『女』の境界線を引きなおす」を書いてから、私は「差別者」というラベルを貼られて、仕事にも多大な影響を受けてきました。
例えば、小宮友根さんは、
と書かれています。「これまで」の「差別的な言説をエンカレッジ」してしまう「文章」とは、明らかに『現代思想』のことを指していると思います。不思議な書き方ですよね、そもそも。私の意図が差別ではなかったとして(おそらく実際に私の文章が差別でなかったとしても)、トランスジェンダーに対する差別的な言説をエンカレッジしたって罪とはいったい何なんだろう。
私自身はもちろん、差別的文章だとは思いませんし、いまはネットでも「あの文章のどこが差別だったのかわからない」という一定の評価があると、私は認識しています(いまだ「差別だ」という人もいるかもしれませんが、私が青土社『現代思想』編集部の許可を得て全文をネットで公開してから、そういう声は少なくともネット上ではみかけなくなりました。『社会学評論』の文章も、皆がアクセスできる状態になってから、急速に「差別」だという声は失速したと思います。「あなたは見ていないかもしれないけれども、差別的な文章だった」と言われれば、ひとは反論できませんから)。
こうした『現代思想』に書いた私の文章へのバッシングは、ほぼ99パーセントがSNS、とくにTwitterでなされました。その際に、中心的な役割を果たされたのが、東大の清水晶子教授です。
清水さんは、ご自身ではあまり批判のロジックを提供されませんでした。
私の論文の要約としては、私自身は、トランス女性を包括した女性は新しいカテゴリーであるのだから、生物学的な「女性」という(旧来の)カテゴリーにトランス女性が包括されるかどうかを問うのは意味がないと書いたのですが(この文意は、トランス権利擁護活動家のかたたちには、正確に読まれなかったのですが)、「トランスフォビック」だと書かれていますね。でもまぁこれは不当な批判とまでは、思いませんが(正しく読まれていないけれども)。
この時点では、議論の反論を書く気はないと書かれていました。清水さんは、確かにご自身では書かれませんでしたが、その代わりに素人の方のブログを褒めたたえることによって、私を強烈に批判されました。
例えば、私がnoteに書いたエントリーが↓ですが、どう考えても「ゆな」さんは私の論文の内容を理解してくださっていないのです。直接やり取りした関係でも、悪意を持ってというよりは、本当に読めてなさそうでした。私の書き方のせいかもしれませんが、学術論文は読み慣れていない人には、わかりにくいもので、私はもっと優しい言葉で書いてもよかったのかもしれません。
「女」の境界線を引き直す意味-『現代思想』論文の誤読の要約が流通している件について
ゆなさんによる批判は、例えば以下はその一部です。ゴシックが私の文章です。
「セルフID」とは、性別変更などの際に、医療や司法による性別の認定を不要とし、本人の感じる性別(ジェンダー・アイデンティティ、日本語では近年「性自認」と訳されますが)を尊重しようとする立場です。トランスジェンダーの活動家はそれを求めてきたと、私は理解していたのですが、「『セルフID』という言葉は、トランス当人にとってもまるで自由でないアイデンティティを、さも自由に自称しているかのように語る、トランス排除的な言説でたびたび目にする言葉」であり、この言葉を使ったことで、トランスフォビアに加担したといわれたら、もう私としては、ズコーっとなるしかない、と思います。「セルフID」に理解を示してすみませんでした…。
ゆなさんは、私が論文を書くに至った状況を、彼女の視点からまとめてくださっています。
この要約に、異論はないですね。私は実体的なレベルではありませんが、「マイノリティ同士の『権利』の対立」(ゆなさんは実体的に考えているが、違います)が社会構造的に強いられている、と書いたところ、「対立なんてない。お前らフェミニストが、トランス差別をしているのが原因なんだから、反省して謝れ」とおしかりを受け、謝罪するようにと非常に批判されました。多分、「間違ったことは言っていない。双方がマイノリティであり、一義的には決まらないことが問題なのだ」といって、発言を撤回しなかった最初の研究者だと思います。そして、「アカデミックな側でも、小宮友根氏や清水晶子氏のようい(ママ)、トランスの権利に積極的に関わっていた研究者たちから疑問の声が上がりました」。
本来なら単なる「差別者」「トランスフォーブ」にすぎない私(あまりに研究者としての地位の低さに、悲しみは覚えますが)を書く場を提供した『現代思想』に矛先は向けられています。
これは現在の「キャンセル・カルチャー」のよくある手口であり、気に入らないと認定した人間に「差別」というラベルを貼ることにより、その活躍のプラットフォームを奪い、今後活躍できないように「キャンセル」しようとするやり方です。しかし「トランスフォーブ」「差別者」と言われても、肝心の論文がまったく正しく読み取られていないのですから、私としては当惑するしかなく、反論はnoteを書いた通りです。
私のnoteとゆなさんのblogの意見が真っ向から対立している、となったときにさっそうと現れたのが、清水晶子さんです。
ネット上でこのツイートを探せなかったたため、スクショを貼り付けます。清水晶子さんという東大教授が、「フェミニズム/クィア理論を専門とする研究者として」、「双方を拝読した上」、「ゆなさんが示された懸念と批判とに同意します」とお墨付きを与えたのだから、瞬く間に私に対するネット上の「叩き」は加速しました。
それだけではなく、清水さんは何度も何度も私への批判を、投稿されていました。
「差別的見解」「問題のある論考」とは、明らかに私の論文のことだと思います(当時、なぜか私の論文は、「論文に値しない」ので「論考」と呼ばなければいけないことになっていました)。
清水さんの言う、結果として流通する「差別言説」とは、私のものであるのかなと思います。ここで「ゆな」さんとともに挙げられている「夜のそら」さんのtwitterのアカウントは現在、削除されていますが、「許せない」「学者生命が終わることを願う」といった強い言葉を何度も投げていらっしゃいました。
「シス」という言葉は理論的に保留にしているにしても、それはトランス差別からではないのだが何よりも、「その人の「女性」というジェンダー・アイデンティティを尊重する」とは書いていませんの部分に非常に、驚いた。何度も書いたはずだがと思って読み進めると、
なぜかここでも(こちらのblogの方が、書かれたのは遅かった)、「セルフID」という言葉は差別、ということになっている模様なのです…。
こうした読解は、明らかにテキストに即していないと思われるし、学術的に読解することが困難だと思われるけれども、清水晶子さんが繰り返してお墨付きを与えたこと、そして彼女自身も積極的にツイートを繰り返したことによって(また次回以降、書きます)、私は「差別論文を書いた」という烙印を押されて、それから多くの仕事を失いました。シングルマザーとして子どもを養っていましたので、辛い事態になったなと思いましたし、なによりも書いてもいないことで、名誉を失いました。社会学者が、「差別主義者」と言われるのは、非常に重いレッテルだと思います。
ところが今日、清水さんがこのようなツイートをされました。
私は清水さんについての論文を書いたことによって、以前のエントリにもわかるように、小宮友根さんにこれまた「差別」と根拠のない(としか私には思えない)批判を繰り返されたのですが…。この2年間は何だったんでしょうか? 清水さんは、私を「差別者だ」と認定したことはなかったのでしょうか…。えっ。
「差別」じゃなくて「トランスフォビック」だから? いやいや、これまで出てきた、「差別的見解」「問題のある論考」「差別言説」とはじゃあ、いったい何だったんだろう?
このツイート自体が非常に問題のあるツイートだと思っていますが、それはまた次回以降に。
でも、清水さんが私を「差別者」と呼んだことはなく、それは私の妄想だそうなので、清水さんと一緒にキャンセルを繰り返してきた人たちも、今後は差し控えていただけると幸いです。清水さん自身が、そんなことは「妄想だ」とおっしゃっています。そして、私の言論活動を妨害するようなことがあれば、確実にさまざまな手段に出るという宣言を、以前にさせていただいた通りです。
平和な日々が戻ってきて、本当によかったです。学問に、邁進したいと思います。