ASD女子が「”カタコトの異邦人”の自由」を手に入れるまで
どうも。アスピー母ちゃんの千四里(せんよんり)です。ほんの数か月前にASDと診断された私ですが、診断後何かが大きく変わったかといったら案外そうでもありませんでした。私は服薬もしていませんし、手帳を取得したり何らかの福祉サービスを使う必要性も、今のところは感じていません。
ただひとつ、ASDと診断されてから起きた変化を挙げるとすれば、「自分のこれまでの人生の選択に、理由付けができるようになったこと」です。何故自分がこの道を歩んできたのか、何故当時の状況があんなに苦しかったのか、などひとつひとつの事柄に理由を与えることができるようになりました。理由が分かれば不用意に恐れる必要もなくなります。嫌で嫌で仕方なかった過去の記憶も、少しずつ昔の自分をねぎらう気持ちに変わっていきました。
この40年間、自分のAS特性に無自覚に生きてきたものの、今は自分にとって快適な「”カタコトの異邦人”の自由」を手に入れています。そしてそれは、迷いと苦しみの選択の末に得た、ある意味必然の結果だったのかもしれません。
語学留学生として羽を伸ばしていた、中国での生活
私にとっての青春の代名詞と言えるのが、大学卒業後に語学留学生として過ごした中国での生活です。1年にも満たない留学生活でしたが、言葉もほとんど分からない中での初めての一人暮らしでもあり、毎日が挑戦の連続でした。
当時は買い物をしても、品質の当たりはずれが大きかったり、市場などで言い値で買うと損をする(大抵店主が値段を高めに設定している)ことも多かったため、きちんと自己主張しなければ快適な生活を手に入れられませんでした。
例え自分の中国語がカタコトでも関係ありません。「とりあえずダメ元で交渉してみよう」というマインドは、この留学生活で大いに鍛えられたように思います。もしかしたら現地の人からすれば、当時の私はとんでもないことを聞いたり言ったりしていたかもしれませんが、所詮は一介の語学留学生に過ぎません。多少変なことを言っていたとしても、中国人の友人も含め皆大目に見てくれていたのだと思います。
時には私が「日本人」だからか、多少の不愉快な思いもしましたが、そんなことを言って来るのは極々一部でしたし、幸い(?)相手が何を言っているのか分からなかったため、大したダメージも受けませんでした。
今思えば、この「カタコトの日本人留学生」のときの自分が、なんのしがらみもなくのびのびと生きられた、数少ない時期だったように思います。
帰国後の日本で感じた閉塞感
約1年を中国で過ごし、日本のいいところも見えてきた私は、色々考えて一旦帰国する道を選びました。中国での就職の話もなくはなかったのですが、当時実家に同居していた弟と母の折り合いが悪く(おそらく母の更年期も重なって)母がかなり重いうつ病になってしまったこと、ちょうど日本の新卒が「売り手市場」に変わったことも私に帰国を後押しさせました。
そうして自分なりに色々考えて帰国したにも関わらず、日本での生活は何故かひどく息が詰まるものでした。苦手なスーツを着ての面接(化学繊維の肌触りが苦手。特にストッキング)、「新卒らしさ」(※私は大学卒業後すぐに留学したため、正しくは第二新卒)を求められるような空気、自分を押し殺すストレス…
母国語で生活が送れるだけで随分快適になったはずなのに、就職活動のプレッシャーも相まってか、帰国後しばらくは閉塞感でいっぱいでした。
翻訳者にあこがれて、校正者の道へ
大学が美術系(しかも絵画専攻)だった私は、絵一本で食べていく道は早々にあきらめていました。絵を続けるとしても、生活の糧は別の方法で得ようと考えていたのです。しかし日本企業での就業経験もなく、1年足らずの中国留学で得た中途半端な中国語では、残念ながらアピールポイントにはなりません。また地元広島では、求人自体がそんなに豊富ではありませんでした。
そんな時偶然私の目に留まったのが「印刷会社の校正」の求人です。いつからか「翻訳」の仕事に漠然と憧れを抱いていた私は、「正しい日本語表記に直す校正の仕事なら、いつか翻訳の仕事をするときにプラスになるかもしれない」と思い、その企業の採用試験を受けました。筆記試験と面接を経て、無事採用されましたが、そこはわずか1年で退職することとなります。
校正の仕事自体は苦ではなく、その奥深さにやりがいも感じていたのですが、ブラック体質な会社だった上、激務&薄給だったため、早々に見切りをつけました。会社の人材の使い方も疑問でしたが、私にとっては校正する原稿がいつ校正者へ渡るかの見通しが全く立たず、自分ではコントロールの仕様がなかったことがかなりのストレスでした。
中国に戻ることを夢見て、調色技術者へ転職
次に転職したのが、校正とは全く畑違いの「塗料調色の技術者」です。こちらは美術系の学部出身者として色彩や調色(色を混ぜること)の知識と、中国語のスキルがうまくマッチして就職につながりました。転職先の企業は中国にも会社があったため、「うまくいけば中国に赴任できるかもしれない」という淡い期待もあって入社したのですが、結果としてこちらも数年で退職することとなりました。
転職先の企業も、当時徹夜が当たり前のかなりの激務でした。仕事自体は好きだったのですが、当時の直属の上司が私にとってかなり苦手なタイプで、勤務中に職場のメンバーのプライベートな噂を、面白おかしく吹聴して回る方でした。
最初は私も聞き流していたのですが、その噂に感化されるメンバーが出てきて職場の雰囲気が悪くなったこともあり、とうとうある日我慢できなくなってしまったのです。私は上司と距離を置くようになりました。
恐らく他の同僚も、内心「くだらない」とは思っていたのでしょうが、そんなことおくびにも出さず、うまく上司を持ち上げていました。けれど私には、どうしてもそれができませんでした。
一方の私は、不快なことはすぐ顔に出てしまうタイプの人間のようです(自分ではよく分からないのですが…)。上司も私に色々思うことはあったと思いますが、彼にしてみれば「全くヨイショしてくれない」不愛想な私は、可愛くない部下だったのでしょう。いつしか私への風当たりは強くなり、激務の影響もあってか酷い眩暈に襲われるようになりました。職場での飲み会でセクハラめいたことをされたこともあり、心身ともに限界を迎えていたのです。
その後縁あって今の主人と結婚することとなったため、こちらも退職する運びとなりました。
無意識で選んだ職種に、ASDらしさも?
今振り返ってみれば、私はいつも「基本的にひとりでも完結する」仕事を選んできました。企業に所属する以上チームで働く場面を0にはできませんが、校正も塗料調色もどちらかと言えば己の技術がモノを言う職人の世界です。実際に私も、「企業に属さず、独立も可能な職種」を基準にいつも仕事を選んでいました。恐らく無意識に、自分がどこかに所属しながらチームワークで作業することが向いていないと分かっていたのだと思います。
そして現在私は、在宅で中国語の翻訳の仕事をしています。漠然とした夢に過ぎなかった翻訳の道を目指したきっかけは、長男が4歳で「広汎性発達障害(後にASDに変更)」と診断され、外で働くことに難しさを感じたことでした。当時仕事はしていませんでしたが、「将来在宅で働くなら、いっそ昔やってみたかった翻訳に挑戦してみよう」と思いたち、育児の合間に勉強や業務の受注を手探りでしていきました。そして今に至ります。
ASDの私にとって快適な「”カタコトの異邦人”の自由」とは
その後次男も7歳でASDと診断されました。当初の予想通り(予想以上に?)ふたりのASDっ子の育児は、一筋縄ではいきません。現に今もふたりは、学校にあまり馴染めている状態ではなく、将来の見通しもなかなか立ちにくい状況です。
しかし彼らの個性的な学びにどうにかこうにか寄り添えているのも、「在宅の翻訳業」の柔軟さがあってこそだと感じています(とは言え私の稼ぎは雀の涙ほど微々たるものですので、大黒柱として主人が働いてくれているからこそ成り立つものではあるのですが…)。
また、今の私の主な取引先は海外の翻訳会社で、連絡手段は全てテキストベースで行われています。互いに外国人同士ということもあり、相手が違う文化を持つことを前提にやり取りしているため、多少言葉が正確でなくても、意味が通じればよしとする場合が多いです。
もちろん基本的な礼儀やマナーは必要ですし、時には互いの思い込みで予想外の場面ですれ違ってしまうこともありますが、必要以上に空気を読みあったり遠慮することはありません。むしろ遠慮して互いの合意を得ずにことを運べば、無用のトラブルの元になります。うやむやのまま話を進めることは、互いにとってデメリットでしかありません。
そういう意味では今の私は日本にいながら、昔中国で自分が体験したような、主張するべきところは主張し、相手の顔色をうかがいすぎなくてもいい「”カタコトの異邦人”の自由」を享受できているように感じます。
そしてこれまでの私の経験から、同じ母語を話す者同士でも俗に言う「定型発達」と「神経発達症」では互いに異なる文化を持っていると私は考えています。両者の衝突やすれ違いの原因の多くは、ある意味文化的摩擦と呼べるものですから、一方に優劣があるわけでもないし、本来どちらも悪くないはずなのです。
母国にいたり、互いに母語でコミュニケーションが取れると、つい相手の文化も自分と似たものだと思ってしまいますが、互いに「もしかしたら相手は自分と違う文化を持っているかもしれない」という意識と、両者が負担にならない程度の歩み寄りがあれば、コミュニケーションの方法も、これまでと少し違ったものになるかもしれません。
普段の生活では色んなしがらみがあり、そのような心掛けは正直難しいこともありますが、自戒の意味も込め、かつて自分が身をもって体感した「カタコトの異邦人」の心意気(?)をほんの少しプライベートでも思い出してみようと思います。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。この記事が何かのお役に立てたら嬉しいです。
ではまた、次回お会いしましょう(*^^*)