映画『エゴイスト』に寄せて 松永大司監督『ハナレイ・ベイ』と絶望と愛
『エゴイスト』観た?一旦落ち着こう。分かるよ。分かってたまるかと君が思ってることも分かってる。いやほんとはなにも分かってない。だから安心して、私の言うことなんか一つも真に受けなくていい。でもこれだけは聞いてほしい。『エゴイスト』を観たあなたに、おまえに、きみに、同・松永大司監督の『ハナレイ・ベイ』を観てほしい。今日はそれが言いたかったの。どうもありがとう。
『ハナレイ・ベイ』 公開:2018年
「息子はここハナレイ・ベイで、大きなサメに襲われて死んだ」
報せを受けてハワイまで駆けつけ、息子の遺体と対面したサチは言葉少なく、決して泣き喚いたり狼狽えたりはしませんでした。それは呆然としているようにも、ひどく冷静なようにも見えます。冒頭のシーンで既に、サチの態度は遠回しにこう語っていました。
これは、愛する息子を失った母親の、涙の物語ではない。
息子を荼毘に付すためしばらくハワイで過ごすことになったサチは、空港で巨大な四駆車を借り、海辺へやってきます。現地で調達したであろう安っぽい椅子と安っぽいバッグを携えた彼女が分厚いペーパーバックを取り出した時、その本もまた現地で調達したものだと分かります。ページを開きやすいように乱暴に撫で付け読み始めた彼女は「それ」のやり過ごし方を既に知っていました。
そうして彼女はその場所に馴染んでいきます。ランチを終えて戻ってくると太陽が移動し、日陰の位置が変わっている。そのことに気づき、ふたたび離席するときは予め椅子を移動してから去っていく。
その後10年、息子が死んだその地に通い続ける中で、いつしか椅子は本格的なアウトドア用品に代わり、エコバッグは編み上げの鞄に代わり、ゆったりとした服を着こなすようになります。必要ないと感じたのか、タフで大きなレンタカーは10年後には小さくて扱いやすい青い車に代わる。そうやって泣き喚く代わりに、彼女はハワイに通い続けました。時に他人に悲劇の母親気取りと蔑まれながら、本人はつらいとも平気だとも言わず、ただ、しかしとてもじょうずに。
そして物語が進むにつれ明らかになるのは、死んだ息子とサチの微妙な関係でした。回想シーンで登場する反抗期の息子は終始憎たらしく、母親にも観客にも、好かれるような造形で描かれてはいません。
サチは、息子を愛していたから、ハナレイ・ベイに通っているのではない。
これは、愛する息子を失った母親の、涙の物語ではない。
息子は彼女の希望ではなかった。
彼が生まれた時点で、とうの昔に彼女はあらゆるものを失っていました。そんな彼女にとって息子という存在は、最後に残った宝物だったでしょうか。むしろ、なにもかもを失い切った彼女の空虚な余生、その象徴ですらあったのではないでしょうか。
息子のことを好きであればよかった。失ったと理解できた。遺体の前で泣き叫んでどうしてなのと言えた。でもそうするためには彼女はもう、とっくに失いすぎていた。
だとすればその息子が死んだ時、彼女は一体何を失ったというのでしょうか。
失い切った彼女は、そんな「絶望」のやり過ごし方を知っていました。分厚いペーパーバックは力強く折り目を付けたほうが読みやすいとか、そういうことを。
だって絶望なんてものは、向き合うにはとてつもなさすぎるから。
たとえば深く根を下ろした大木や、どこまでも続く海のように。
どうやっても、その体一つ、腕の二本だけでは動かしようがないから。
「僕は、愛がなんなのかよく分からないです」
エゴイストの予告編で印象的に使われている台詞です。
だから愛がなんなのかよく分からなくなる映画だと思って観に行ったんですよね。ハワイで息子が死ぬ映画を観に行くつもりで出かけた時と同じように。
それなのに二回とも、私が受け取って帰ってきたのはハワイで息子が死ぬ話でも、愛が分からなくなる話でもなくて、「絶望と愛は時に同じものである」ということでした。
出会いたての二人の微かな高揚感と気まずさ、恋が走り出す時の戸惑いと、思考が自分のものではなくなっていくような感覚、見えるようになるもの、見えなくなるもの、金銭感覚、その時々で何を優先するか、優先せざるを得なくなっていくか、行動一つ一つの理由、それを言葉にできるとき、できないとき、あの時彼は、どうしてあんなことを言ったのか。
松永監督の映画はその緻密な状況描写に満遍なく縁取られていて、物語は登場人物によるその状況の理解と受容の過程です。
だから観客も、登場人物と同じ一瞬に理解するんです。恋が始まる理由や、自分が変わって行く様や、いつの間にか立っていた場所を。
浩輔が、恋人だった人間の母親に対して自分が何をしたいか、どうしてそう思うのか説明しようとする。言葉が整理される前に話そうとする浩輔の隣には私がいて、必死になって考えていました。どうしたらお母さんに封筒を受け取ってもらえるのか。そして彼が「自分はこの人を看取るんだ」と悟った瞬間、私も同じことを悟ったんです。あれは単なる感情移入ではなく、緻密な描写の上に成り立つ状況の理解でした。
若くして母を亡くした。そう。ただ恋をして浮かれた。そう。母親を大切にする恋人に自分を重ねていた。結果的にはそう。恋人を失えなくなった。そう。恋人を失った。そう。恋人の母親を失えなくなってしまった。そう。恋人の母親をこれから失う。はっきりと、そう。
どうしようもなくただそこにそう、ある。
動かしがたく、ただそう、ある。
絶望しようとしてするわけもなく、愛そうとして愛せるものでもない。ただ動かしがたい現実が、状況が、結果として絶望、もしくは愛そのものとして立ち現れる。『エゴイスト』でも、『ハナレイ・ベイ』でも。
『ハナレイ・ベイ』のコピーに「これは、希望の物語」というのがあります。愛と絶望が同じところから立ち現れて、切り離すことができないのであれば、希望もまた同じ現実からゆっくりと立ち上って私たちに訪れる。
『エゴイスト』で浩輔が最後に得たものを救いだと感じた人には、『ハナレイ・ベイ』でサチに訪れた希望がなんだったのかも目撃してほしい。それがどれだけ確かなものか、『エゴイスト』を観た人には分かると思います。
「僕のせいです」「私のせいだ」 “It’s my fault.” “C’est ma faute.”
何本の映画の中で、何度聞いたことのある台詞でしょう。それはたいてい、誰のせいでもない悲しみや絶望に際して口にされます。そして誰かがこう返事をします。「あなたのせいじゃない」
いつも思うんですけどあれって、めちゃくちゃ愛じゃないですか?いつか誰かにそう言ってあげたかった、誰かの傷だから。ただそうでしかいられない、動かしがたい現実の前で、浩輔の父から妻にかけられた「仕方ない。一緒にいるしかない」という言葉や、龍太の母から浩輔にかけられた「愛してくれたでしょう」という言葉と同じように。
でもきっと、変えることのできる「状況」も、あるはずなんです。
必死に理由を作らなくてもそばにいてと言える状況も、言葉を振り絞らなくても恋人だった人間の母親にお金の入った封筒を受け取ってもらえる状況も、息子さん?と尋ねられて「そうです」と答えられる状況も。
ねえそれってもしかして、彼らの選択肢に「結婚」のふた文字が当たり前にあったら、それをたとえ二人が選ばなかったとしても、何もかも違ったんじゃないの?
あんたの言う社会って、なんなんだろうね。