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白洲次郎という生き方を読んで

本屋でたまたま見かけた書籍です。

敗戦後の日本において、吉田茂がサンフランシスコ平和条約を日本語で堂々と読む姿に涙したのは、白洲次郎ということをどこかで聞いたことがありました。

どんな人物なのか元々興味があったので読んでみました。

一文要約 by Semple

原理原則に従う戦後のイノベーター。

白洲次郎はどんな人?

1902年(明治35年)に兵庫県芦屋市に生まれました。名前から分かる通り次男坊です。

学業はとりわけ出来たわけではないですが、英語に関してのみ別です。なぜなら白洲家に寄宿していた神戸女学院の外国人教師や教会の牧師から教わっていたため、かなりできました。

その甲斐もあってか、17歳の時(1919年、大正8年)にイギリスへ留学。ケンブリッジ大学のクレア・カレッジへ入学しました。東洋人は次郎のみでした。

そして終戦を迎えた1945年(昭和20年)12月には、日本の復興をかけて次郎はGHQと渡り合いました。親交の深かった、吉田茂に頼まれたことがきっかけです。


日本が占領国から独立国になるまでの白洲の行動

吉田茂が次郎をGHQの交渉役に選んだ理由は、次郎の卓越した英語力だけではありません。

吉田茂は次郎へ「君の語学力とその鼻っ柱の強さで、からっきし意気地のなくなった役人どもを鼓舞し、占領軍と戦ってくれ」と依頼しました。

敗戦した日本において、政治家は呆然とし、役人は卑屈となるものが大半でした。しかしイギリスで学んだ次郎には、アメリカへのコンプレックスもありません。そんな次郎に白羽の矢が立ったのかもしれません。

少なくとも勇敢さに関しては、一つだけ確かなことがあります。それは役人としての経験がなく政治経験もない無名な人間が、役所のトップになったことです。次郎のその勇気の強さは想像できます。


「戦争に負けても奴隷になったわけではない」

無条件降伏によって敗戦国となった日本に対して、GHQの行った「民主化」は容赦のないものでした。

財閥解体、農地改革、公職追放などを通じて戦前の日本をどんどん解体しました。GHQの意に沿わない者は、戦犯指定や公職追放令を盾に、東京裁判で排除された時代です。

唯一従順ならざる日本人として、そんな環境においても臆することなくGHQとやりあった人間が、白洲次郎です。


「自分は必要以上にやっているんだ」

日本国憲法の制定において、次郎は負け戦にもかかわらず、最後の一瞬まで責任感を持って対応しました。

国際法上の決まりで、占領国が被占領国に対して憲法のような根本法への介入は禁止されていました。しかし現在の日本国憲法は、GHQの憲法改正草案を日本政府発布のものとして制定されました。GHQへの交渉役としては、負け戦となることは明確です。

日本政府としても草案を作っていましたが、どれもGHQの求める民主的な憲法からほど遠かったため、突然GHQから草案が提示されました。いわゆるマッカーサー草案です。

日本側の作成する草案とGHQから提示されたものとの折衷案を模索していた日本政府でしたが、時間的制約のある中で、GHQからはなかなか許可されず、マッカーサー草案を日本国憲法として制定されてしまいました。

GHQの横暴に日本の憲法草案作成者たちの中には、怒りを覚えて立ち去る者も少なくありませんでした。しかし次郎は、マッカーサー草案の日本語翻訳を発表直前まで続けました。

次郎にとって、憲法制定は占領軍の言いなりではないという事実を記録として残すことで、当時の為政者が抵抗したことを示しました。従順ならざる日本人は、後世の日本のことまで考えて最後まで戦い抜きました。

憲法制定の過程においては、納得のいかないことも多かった次郎でしたが、その内容に関しては一定程度評価はしていました。特に戦争放棄に関しては、圧巻だと評価しました。


「使命が終われば、やめるがよろしい」

日本の経済復興のためには、外貨獲得のための輸出産業の復興が必要と考え通商産業省の創設や、電力会社の民主化のために電気事業の再編を行った際、独立国家復帰のためのサンフランシスコ講和条約の制定後も、自分の役割が終わればすぐに身を退いて、後進に立場を譲りました。

地位や名誉には関心がない次郎は、「たまたま巡り合わせで、得ただけの地位や権力」と考えていたからです。野心もありませんでした。

イギリスで学んだ次郎には、「ノブレス・オブリージュ」がありました。直訳すると「位の高い者の責務」、つまり貴族など特権を与えられた者は、何らかの形で社会に還元しなければいけないという考え方です。これは使命感によるものであって、自己の利害や立身出世とは別物です。

恵まれた家庭で育った次郎にとって様々な仕事は、自分に与えられた役割であり、社会へ還元する使命を背負っていたのかもしれません。だから役割を終えたと感じたら、後進へ立場を譲っていたのかもしれないですね。


プリンシパルを意識した生き方。

自身の進退やその交渉術の段においても、次郎は自分の中のプリンシパルにしたがって行動していました。プリンシパルとは、原理原則を意味し、哲学や価値観と言う事もできます。

次郎は、趣味においても仕事においてもプリンシパルのない人間を毛嫌いしていました。

次郎の服装は、誰かを真似するわけでなく、高級なものでもなく、自分にとって一番いいものを選んでいました。同様に酒もイギリスの友人から直接輸入した本場のウイスキーを好んで嗜んでいました。

外交官である吉田茂は、イギリスの輸出振興で振舞われるウイスキーこそ至高だと思っていたようです。しかしイギリスで学んだ次郎にとっては輸出政策の酒よりも地酒の方が美味であると考えていました。

趣味だけでなく、仕事においてもプリンシパルを大事にしていました。

例えば通商産業省を創設する際にも、今までの枠組みから考えるわけではなく、あるべき未来を実現させるためにどういった組織が必要なのかを考えた上で創設しました。前例や慣習を気にする事なく改革を断行していく姿は、プリンシパルのみに着目する次郎を感じることができます。​


書籍を読んで。

イーロンマスクとの共通点

次郎のプリンシパルだけを意識した言動は、今をときめくイノベーターであるイーロンマスクを想起しました。日本国民や世界人類のために自分ができることを考える姿や手段から考えることなく、ビジョンを元に行動する姿には共通するところがあります。


また次郎を軸とした本書を読むうちに、今までに読んだ他の書籍(最下部に参考情報としてまとめておきます)と合わせて日本の昭和時代に思いを馳せました。やはり歴史は一本の川のようにはなっておらず、複数の選択肢からその時のベストの選択を取り続けた結果の積み重ねでしかないのかもしれません。後から悔やまないように、その都度その都度自分の頭で考えて決定していかないと、だめなんですね。

未来がわかっているなら、最高の選択を選ぶことができますが、人生においてはその時々で、持てる全ての情報を総動員して判断していくしかないんですね。

だから次郎のようにプリンシパルを持つ必要があると感じました。自分のプリンシパルを持って、そこから外れないからこそ、文脈や前例に縛られずに生きていくことができます。

まぁなかなかそんなカッコよく生きられないですけどね。


先述したとおり、次郎は日本が戦争に負けたからといって、日本国民全てが奴隷となったわけでないと考えていました。この考え方は今の時代でも使えると思います。国家の立ち位置と自分自身の根性は別物と考えることです。

例え日本国家が衰退したとしても、日本国民という理由だけで自分の未来を狭める必要はありませんし、自分を腐敗させる必要はありません。

つまり現在の日本の凋落や中国をはじめとしたアジア諸国の台頭に引け目を感じるニュースの多い日本に住んでいても、日本国民の自分が何かマイナスなものを感じる必要はないことを白洲次郎から学ぶことができます。

愛国心や日本国民としてのプライドを持っていたとしても、国家を自分の人生に投影する必要は全くありません。国家に限らず会社や学校でも同様のことが言えると思います。従業員の立場であるなら、自分の人生と会社の業績を投影することなく、一人の個として生きていくことが大切だと感じました。

プリンシパルをきちんと持っておけば、このような自立したマインドを持っておくことができるかもしれないですね。


参考情報:激動の時代についてもっと知りたい人へ。

・昭和16年夏の敗戦


・日本のいちばん長い日


・官僚たちの夏


・LEADERS


・海賊と呼ばれた男





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