【不条理には理由がある】(賢さの本質についてのひとつの解釈)
無常の世に放たれ、常に変化に対応することを宿命づけられた人という種族にとって、成長することは避けられない命題の一つ、かもしれない。そしてこの前提に立った時ではあるが、悪とは「自らの正しさを疑わないこと」に尽きる気がする。成長しなくていけない、という思いが育つことがないからだ。
とりあえずこのことがわかっていると環境が悪かろうと周囲の人がクソに見えようと、自分側の問題として解決が図れる。冷静な交渉ができるし、それでもどうにもならない相手には、この前提だけが正しいわけではないと反省できる。そしてこの前提だけなら、相手を悪、つまり無知蒙昧だと断じられる。
世の無常さにその無知蒙昧で対処できるものか、実に見ものだな、といやらしくほくそ笑むくらいは許されよう。それが常になれば、同じ穴の狢になるのでお勧めはしないが。争いの回避は賢い方の使命だ。つまり賢くなりたいなら、これを命題にしてもいい。賢くありたいというのも成長の礎になる。
人生のテーマの一つに成長を取り入れているなら、幼稚な人間の所業から一歩遠ざかり、相手をしないという選択によって相手の関心をやがて薄れさせることができる。宇宙的に言えばそこから学ぶことがないなら、それは「私」を悩ませる必然がない、という状況になっていく。不条理には理由がある。