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「信じる」ということ:不確実な時代を生き抜くための最も信頼できる指針

はじめに

現代社会は、様々な課題に直面しています。

グローバル化、情報化、環境問題、経済格差、そして人と人との繋がりの希薄化…。

これらの課題を解決し、より良い未来を創造していくためには、「信用」という概念を再認識し、社会の基盤として再構築していく必要があるのではないでしょうか。


多様性と信用

多様性とは、異なる価値観や文化、考え方を認め合うことです。

しかし、真に多様性を実現するためには、相互理解と信頼が不可欠です。

私たちは、自分と異なる意見を持つ人の言葉に耳を傾け、理解しようと努める必要があります。

そして、相手を信頼し、尊重することによって、共存の道を見出すことができるのです。

しかし、現代社会では、不信感や敵対心が蔓延し、多様性を阻害しているように感じます。

SNSでの炎上、差別や偏見、排他的なnationalism...。

これらはすべて、信用の欠如が生み出す問題と言えるでしょう。

多様性における信用とは根源は同じものの違う表れであると理解することです。この信頼をもと(支点)に他者への共感や理解を深めること(力点)で、やがて互いに尊重し合い、協力し合うことができるようになる(作用点)からです。

お金と信用

お金は、社会を動かすための重要なツールですが、信用がなければその機能を果たすことができません。

お金の価値は、人々がその価値を信じているからこそ成り立っています。しかし、現代社会においては、お金に対する信用が揺らいでいます。

金融危機、経済格差、環境破壊...。

これらはすべて、お金を中心とした社会システムの歪みが生み出す問題と言えるでしょう。

これらは一般にはお金への妄信として現れていますが、お金の絶対性を疑い始めた人ならば、「人格に基づく信用」と「お金による形としての信用」の乖離が、社会不安となって表出していることを感知しているでしょう。

お金は人格的な意味で信用に足る人が持ってこそ、社会にその機能が還元されるのです。

なお、お金が作り出す余裕のおかげで人格を装えるのは当たり前で、お金に頼れなくなったときに現れるだろう人格こそ、その人の人格の本質と言えます。

SDGsと信用

SDGs(持続可能な開発目標)は、貧困や飢餓、環境問題など、地球規模の課題を解決するための国際的な目標です。

SDGsを達成するためには、世界中の人々が協力し、共通の目標に向かって行動する必要があります。

そのためには、国と国、企業と企業、個人と個人の間に、強固な信頼関係が構築されていなければなりません。しかし、現実には、利害の対立や不信感によって、国際協力が難航するケースも少なくありません。

それも当然の話で、主導するのが人格ではなく、お金である点が大きな矛盾なのです。お金を信用することと人格を信用することは結び付かず、人格だけが社会を大切にする機能を有しています。

SDGsを達成するためには、世界規模で信用を構築し、維持していく必要があるのですが、トップダウンで行うべきものではなく、ボトムアップとなるのが自然です。

トップが焦るほど、ボトムはそれに対して不信感を抱くことになるでしょう。そもそもボトムから広がったこれらの思想を弾圧したトップがいまさら何を言うかというのもあるのです。

量を質に変える流れの衰退と膠着

人は人生で様々な経験を強いられ、それを解釈して生きていきます。世界とのかかわりの中で、与えられたものに付加価値を加えて世界に返すというのが人の勤労の本質の一つでもあります。

この勤労の本質は国家においてもアイデンティティとなり得ます。

加工貿易は、かつて日本が高度経済成長を遂げる上で重要な役割を果たしました。しかし、近年は技術の流出を防ぐことが難しくなり、加工貿易のメリットが減少しているという側面もあります。

これは、お金に対する過度な執着が、特許権やジェネリックなどの矛盾した形で技術革新を阻害し、社会の発展を妨げている例と言えるかもしれません。

社会の発展は量ではなく、質の面で評価するすべを見つける必要があり、これはお金という数字でしか表せないものが最も苦手とする分野であり、だからこそあらゆる取り組みが膠着しているのだと考えられます。

クオリアと信用

外部の指標に信用を求めることは、結局は人格の信用との乖離を生むことを見てきましたが、今度は内面に信用の基盤を見つける試みもしなければなりません。

お金が欲求を外在化したものである以上、内面においても着目すべきは欲求と考えられます。

内面における報酬はクオリアとして実感しますが、このクオリアには多彩な種類があります。

高次の欲求を満たす

マズローの欲求段階説では、人間の欲求を5段階に分類しています。

  1. 生理的欲求

  2. 安全の欲求

  3. 所属と愛の欲求

  4. 承認の欲求

  5. 自己実現の欲求

マズローは、これらの欲求が階層的に満たされることで、人はより高次の欲求を求めるようになると考えました。そして、自己実現の欲求を満たすことで、人は真の幸福と充実感を得ることができると主張しています。

実際、自己実現の欲求の満たされのクオリアを経験した後で、生理的なクオリアを優先することはまずありません。もちろん、欠乏に対する忌避の感覚はありますが、満足においては社会性の高いクオリアの方が選好されるはずです。

「矜持のクオリア」は、まさにこの自己実現の欲求を満たすことで得られるクオリアと言えるでしょう。それは、世界ソリトンとの一体感を味わい、自己の存在意義を実感できる、至高のクオリアです。

こうした精神的なクオリアは、世界との相互作用を通して得られる、高次の喜びや満足感です。(ただし、高いとか低いといったイメージは、社会性との結びつきで定義されているだけで絶対性はありません。)

シンクロのクオリアと英雄願望

素晴らしい人物の心にシンクロしたとき、自己実現を達成したとき、英雄を目指す姿勢を貫いたとき...。私たちは、世界との一体感を味わい、深い幸福感に包まれることができます。

そして、精神的なクオリアを経験するためには、世界や他者に対する信頼が不可欠です。不信感や敵対心に囚われていては、世界との調和を感じることはできません。

世界を信頼し、他者と心を通わせることで、私たちは精神的なクオリアを豊かにし、より高次の存在へと進化していくことができるのです。

我々が英雄や人格者に憧れる理由の一つはそれであり、その精神的なクオリアの味を知っていることで、社会における活動に、質的な満足を得る道が開け、実際に自分自身で英雄や聖人であるクオリアを味わえることすらあります。

また、こうした相互作用を社会的な活動で強く意識していくことで、自分に似た者の考え方や捉え方をする現象や人物と出会う機会が増えていきます。

自分がそういう相手を見つけるように、相手も自分を見つけてくれるからです。関心と関心は引き寄せ合うのです。そして、これは強い信用になり得ます。

君子論

「君子危うきに近寄らず」ということわざは、自分自身の価値観や信念をしっかりと持ち、危険な状況や悪影響を及ぼす可能性のある人々から距離を置くことの重要性を説いたものです。

多様性を受け入れることは重要ですが、同時に、自分自身の軸をしっかりと持ち、不用意に他者の影響を受けないことも大切です。裏切られないためには、信じる相手を選別しておくことは重要です。

そして、それには明確な基準を持ち、発展させていくことで自分を墜とさないようにする必要があります。それが君子の心得と言えます。

だからこそ、「君子の交わりは淡きこと水の如し」であり、甘くて濃い交わりに対する警戒があるのです。表面で繋がりを確認し続ける必要がないことも、関係が淡くても満足できてしまう理由です。

君主論

西洋と東洋では、理想的な君主像に違いがあります。

西洋では、マキアヴェッリが『君主論』において、目的を達成するためには手段を選ばない現実主義的な君主像を提示しました。

一方、東洋では、堯舜のような、徳によって民を治める理想的な君主像が重視されてきました。

堯舜は、私利私欲を捨て、民の幸福のために尽くした聖天子として、後世に理想の君主像を示しました。

現代社会において、君主は、国家の代表として、国内外の様々な課題に対応する必要があります。

グローバル化や情報化の進展、環境問題、経済格差、テロや紛争など、現代社会は複雑で不安定な状況に直面しています。

このような状況下において、君主は、どのようなリーダーシップを発揮すべきなのでしょうか?

形而上学の視点から見ると、君主は、世界との調和を保ちながら、社会全体をより良い方向へと導く存在であるべきです。

それは、短期的な利益や権力にとらわれることなく、長期的な視点で社会の安定と発展を考えること。

そして、多様な価値観を尊重し、人々の協調と共存を促進すること。

さらに、自然との調和を大切にし、持続可能な社会を実現すること。

君主は、世界の無限の可能性を信じ、人々を導く羅針盤となる存在であるべきです。

君主論は、時代や社会の変化とともに、常に問い直されるテーマです。

現実的ハイブリッド戦略:状況に応じた統治

性善説の信奉者であり義務の担い手に対しては堯舜の在り方で、性悪説の愛好者であり権利の主張者に対してはマキアヴェッリの政略で臨むというハイブリッド戦略は、形而上学の視点から見ても理にかなっています。

心を大切にする人、すなわち社会の義務を果たし、調和を目指す人に対しては、信頼と共感に基づいた融和政策が有効です。

むしろ、厳粛さは彼らの内面の性善説に基づく豊かさを性悪説に転化させて殺すことにもなり、社会の安定を揺るがすようになるでしょう。

逆に物やお金を大切にする人、すなわち自己の権利の追究を優先する人に対しては、法や制度による厳格な管理と罰則の強化が必要となります。

それに加えて養育や教育の導入が付加されるでしょう。性悪説を性善説に転化させる方法は非常に難しく、形而上のことへ興味を持つようになることでしか恐らくは兆しは見えてこないでしょう。

結局、現実的な次善策として、状況や相手に応じて統治方法を使い分けることで、君主は社会の秩序と安定を維持し、人々をより良い方向へと導くことができるでしょう。

性善説を保つために①:信頼の基盤は過度な期待をしないこと

私たちは、無意識のうちに相手に期待をしてしまい、その期待が裏切られたときに傷つくことがあります。

しかし、相手は私たちの期待通りに行動する義務はありません。

過度な期待を捨てることによって、私たちは裏切りに対する免疫をつけることができます。

そして、相手をありのままに受け入れることができるようになるでしょう。

性善説を保つために②:間違いや誤謬を受け入れること

人間は、それぞれ異なる物差しの種類と精度を通して世界を認識しています。

そのため、考え方や価値観が異なるのは当然のことです。

相手の誤謬を責めるのではなく、理解しようとする姿勢が重要です。

そして、認識の違いを認め、互いを尊重し合うことによって、真の信頼関係を築くことができるのです。

性善説を保つために③:裏切りにおける自己責任を理解すること

性善説の人間が性悪説に転化するのは、大抵は信頼を失うからです。人の善性に、社会に、そして世界に、ときには神に。

特に裏切りを経験することで、人は信じることを諦めたり、恥じたりするようになります。裏切られたと感じたとき、性善説を性悪説に転化させることによって絶望に耐えようとします。

しかし、裏切りを経験したときこそ、相手を責めるのではなく、まず自分自身を振り返ることが重要です。

自分の言動が相手を裏切りを誘発するようなものではなかったかなど、相手の立場に立って考えることが必要です。

形而上学的には、裏切りもまた、(自分が創り出した)世界の一部として起こる必然であると捉えることができます。そして、その必然は、自分にとっての必然なのです。

この形而上学的な理解こそ信頼を保つ鍵でもあります、性悪説に転化して絶望に耐えるのも力学ですが、性善説をさらに拡張すること、裏切りを成長の糧として活かすこともまた、絶望を退ける力学なのです。

裏切りを経験したとき、相手を責めるのではなく、世界との繋がりを再確認し、自分自身の物差しの種類と精度を見直す機会と捉えることができるのです。

信じることの本質:「信じるとは裏切られてもなお信じるからこそ、信じるなのです」

信じることは、相手に対する期待や予測に基づくものではありません。それは、相手をありのままに受け入れるという、強い意志に基づく行為です。

信じたからには裏切りを経験したとしても、相手を信じ続けること。むしろ裏切りに対し、自分の在り方に立ち返ってその原因を求めること。

あるいは、もしかすると本当に信じた自分が悪かった、と結論せざるを得ないかもしれないけど、それでも「その分私は賢くなった!」というさらなる信じるへ向かうこと。

傷よりも学びを優先しようとする、この覚悟こそ、世界との調和を目指し、自分自身の物差しの種類と精度を拡張し続けることに繋がるのではないでしょうか。

結論:信用を基盤とした社会の実現に向けて

私たちは、多様性、SDGsといった膠着しつつある社会問題を契機に、人格に基づく信用を基盤とした社会を構築することで、そしてそれを支える個人の成長といった課題に覚醒し、より良い未来を創造していくことができるのではないでしょうか。

世界を信頼し、他者を信頼し、なにより自分自身を信頼すること。

そして、それに基づいて確固たる相互理解と協力を通して、より良い未来を創造していくこと、それが、人間としての在り方なのではないでしょうか。

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Selle Celery
真実にお値段はつけられないです。…? あ、単に面白かったというのなら、まあ…? たしかに仕事には対価は必須ですけど、仕事してるのGeminiさんだし…。ねえ…?