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日々のすべてを財産化する思考法

がんばって勉強したのに、テストで思ったほど点数が伸びなかった。

隣に座っているクラスメイトは、土日も遊んでいるようなのに、勉強している自分よりも点数がいい。

悔しい。悲しい。

一生懸命何かに取り組んだのに、努力が報われない結果となり、悔しさや悲しさに苛まれることは、誰もが一度は経験するのではないかと思う。

また、突発的な不運に見舞われて、なんで自分ばかりがこんな目に遭うのだろうと、やるせない気持ちになることもある。

真摯に向き合っているつもりなのに、親しい誰かと気持ちが行き違い、喧嘩になってしまうこともある。

もし、そういった「体験」を、悔しさや悲しさ、憤りにコーティングされただけの「経験」として、心の倉庫にしまい続けるとしたら、どうだろうか。

日々を重ねるたびに、心の倉庫は負の遺産であふれていくだろう。

そのせいで次第に、自信を失い、人を信じられなくなっていくかもしれない。

そこで、そんなマイナスの体験なんか、すぐに忘れてしまったらいいという考え方も出てくる。

しかし、これがなかなか忘れられない。

事あるごとに負の遺産としてその経験が意識の中に立ち上がってしまう。

時間と共に記憶は薄れていくが、ふと思い出した時、その記憶が、悔しさや悲しさ、憤りの衣装をまとい続けているとしたら、時を経て二重につらい思いをすることになる。

それでは「もったいない」と私は思う。

欲の深い人間なのかもしれないが、できることなら私は日々のすべてを財産に変えて、心の倉庫にしまいたい。

その体験にまとわせてしまった黒い衣をほどいて、未来を光らせる要素を少しでも見出したい。

そこで私は、一見何か良くない出来事が起こった時に、次のようなことを思考のステップを踏むようにしている。

-日々のすべてを財産化する思考法-

①その出来事によって、自分にもたらされた感情を味わう。

②その出来事が起こって、「逆に良かったこと」を3個以上見つけてみる。

③その後、その出来事が「逆に良かったこと」につながっていく過程を観察していく。


例として、最近、私の身近に起こった不運についてお話ししたい。

数ヶ月前、教室のトイレが詰まりを起こして、使えなくなった。

このトイレ詰まり、新しい教室に移転して以来、何度も何度も悩まされていることであり、その度に不動産屋さんとお話をして修繕工事をしてもらってきた。

1年ほど何事もなく使用できていたのだが、再び詰まってしまった。

その日は不動産屋の定休日だったが、そこの社長さんと何とか連絡がつき、現状をお話して対策をしてもらうことになった。

その時、私の心の中では、ネガティブな思いが渦巻いていた。

「気をつけて使ってきたのに、また詰まってしまうなんて、なんてついてないんだ。」

「生徒やスタッフにもまた迷惑をかけてしまうな… 一体いつ復旧できるんだろう。」

「今回の詰まりを、不動産屋さんが僕たちの過失だとして、損害賠償請求してきたらどうしよう。」

私はそういったネガティブな思いをぐっと飲み込み、不動産屋さんの社長さんと、冷静に淡々とお話をするよう努めた。

トイレに水道の業者さんが調査に入り、復旧工事に目処がつくまでの数日間、私は心に渦巻くネガティブな感情を味わい尽くす中で、次のような自問自答を行なった。

「この出来事で一体何がもっと良くなるだろう」

この出来事によって、以前よりももっと良くなる何かがあるに違いない、それを探してみよう、そう決めて、私は思考をめぐらせた。

「私の教室だけでなく、このビルの他の部屋に住む人たちの水回りの安心にもつながるかもしれないなあ。」

「今後、新しい物件探しをする時に、水回りに関しては鋭い視点をもてるようになるなあ。」

「教室でも自宅でも、水回りの点検やお掃除をこれまで以上に大事に行うようになるから、"気"が良くなるだろうなあ。」

そんなことを思い浮かべながら、努めて穏やかに、トイレの復旧工事の進捗報告を不動産屋の社長さんから受ける数日間を過ごした。

そして約1週間後、トイレは完全復旧した。

今回の原因は、我々の教室のトイレにはなく、ビルの大動脈のような下水管に何十年にも渡って堆積していたサビのかけらが、汚水の出口を塞いでいたことにあった。

その何十年分の堆積物が一掃された。

他のフロアでも謎の水漏れが生じていたそうなのだが、それが原因だった。

トイレが復旧して安堵したのと同時に、私は今回の出来事がどんな良い事につながったかに思いを巡らせた。

「今回、新しい教室のトイレが使えなかった事で、生徒やスタッフがトイレを使うため、近隣にある旧教室に足を運ぶきっかけになった。旧教室の存在に光が当たった。再活用の契機になるかもしれないなあ。」

「今回初めて密にお話をした不動産屋の社長さん、最初は信用できる人なのかな?と疑ったりもした気持ちもあったけど、誠実に仕事をしてくれる方だった。これで今後何かあっても、安心して相談できるなあ。」

もし、トイレが詰まった初期の段階で、社長さんと険悪な感じになっていたとしたら、こんなに清々しい気持ちにはなれてはいないだろう。

さらには、こちらから言ったわけでもないのに、トイレが使えなかった期間の補償もしていただけることになった。

トイレが詰まり、あふれた汚水を一生懸命掃除しながら、途方に暮れていたあの日の私の体験は、さまざまな種類の財産となって、今、私の心の倉庫にしまわれている。

人生の中には、こんな単純には片付かない出来事も起こる。

身近にも、人類規模でも、取り返しのつかない悲しい出来事が起こる。

そういう深刻な出来事に関しては、その供養に相当な時間がかかるだろう。

割り切ることのできない悲しみは、忘れることなく供養し続けることも必要だろう。

その出来事に関して、タフな交渉をし、時には断罪することも必要かもしれない。

でも人は、長い時間をかけて、悲しみを供養し、希望を見出すことができると信じる。

人の小さな日々の体験が、負の遺産としてではなく、希望につながる財産として心の倉庫にしまわれていくことが、大きな災禍が起こる確率も減らすと、私は信じる。

何かうまくいかないことがあったり、不運に見舞われたりしたら、そのことでもたらされた感情を否定せずに味わう。

そして心が少し落ち着いてきた時に、「この出来事で、逆にもっと良くなることは何だろう」と思いを巡らしてみる。

時の流れの中で、その出来事がどんな良いことにつながっていくか経過観察をしてみる。

そうすることで、時を重ねながら、日々のすべてが財産に変わっていき、心の倉庫は日々、豊かさを増していく。

そしてこの世界をも豊かにしていく。

そう私は思う。

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