武田百合子『遊覧日記』 その1
情景が現前する。それこそが小説の核だと考える。もちろん小説には物語も語りもある。だけど、それらは二次的なものでしかないのではないか? という考え。物語や語りではできない深いところで、作者と読者を結び付けるものが情景描写にはあるのではないかという仮説。それで(僕の考えでは)小説そのものである素晴らしい一節を書き写したいと思った。が、小説をそのまま抜粋して、それだけ載せると基本的に著作権に引っかかるらしい(音楽がYouTubeやSpotifyで気軽に聞ける時代に、小説の抜粋が著作権にひっかかるといって認められないのは、ただでさえ危機に瀕している小説を自滅に導くことでは?)。なので、(いらない)感想や予備的な(いらない)情報を付加して、noteに書いてみようと思う。
第一回は武田百合子『遊覧日記』。遊覧日記は著者がある場所を訪れた際に目にしたもの、考えたことを、綴った文章だ。日記と称しているが、『富士日記』や『日日雑記』などと違って日付がついていないし、一日のことを書いているわけでもない。話に展開があるわけでもなく、これは小説ではないかもしれないが、小説にとって一番大切なもの、小説を駆動する力に満ちた文章だと思う。僕の意見などどうでもいい。まずは著者がビルの屋上のビアガーデンから不忍池を見下ろしている情景をどうぞ。
西の空に黒い棚雲が二つある。傾いていく太陽が出たり入ったりする。雲に隠れると、日蝕のときのように濃い橙色の光を発射し、池の北半分の水と蓮は暗澹とかき曇り、南半分は金色に油照りする。ハワイ音楽のとぎれめに蝉時雨が湧き上がってくる。旗を立てた自転車で池の畔りを売り回るアイスキャンディー屋のチリンチリン。何種類かの吹奏楽器の、とんでもない調子外れの高音低音が、水上音楽堂の方角でしている。七時半からはじまる「上野夏まつり、水前寺清子出演ビッグヒットショー」の準備をしているのだ。
続く段落も書きたい。書く。
南から風がくる。先ず、左岸(仲町の方角)寄りに厚ぼったく膨れ上がって密生している蓮の葉を白く裏返し、それから水面に蒼ぐろく光る鱗波を寄せ、次に真ん中辺の蓮の葉を裏返しして、右岸(動物園の方角)へと吹きわたっていく。
どうだろう、この現前性は。ビアガーデンの欄干から不忍池を見ている著者。ゆったりと店のハワイ音楽を聴きながら空を眺め、次いで池を眺めていると、蝉の声が聞こえ、アイスキャンディー屋の音が聞こえてくる。視線は池の畔り。するとまた吹奏楽器の音が聞こえて、今度は水上音楽堂の方角を見る。という著者の視線の動きが分かる。次の段落では、ゆったりとした視線の動きと、蓮の動きで時間の流れが自然に感じられる。この二つの段落だけで、池全体のダイナミックな動きが伝わってくる。
こんな凄まじい文章と比肩することができるとすれば、マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』くらいではあるまいか? まじで。しかも『遊覧日記』には『失われた時を求めて』と違ってつまらない(と僕が思う)ところがない。繊細で簡潔、さっぱりしているのに、はっきりくっきりと情景が浮かんでくる。
これからこういう素晴らしい文章を紹介していこうと思う。当面は一日一冊、別の本を紹介するが、『遊覧日記』はこういう素晴らしい文章がいっぱいあるから、また紹介するにちがいない。だから題名に「その1」をつけた。
ではまた。