「異世界おじさん」と「佐々木とピーちゃん」、反逆のおじさん達
「異世界おじさん」と「佐々木とピーちゃん」、共通しているのは…そうです。主人公がおじさんです。
異世界ものなのに。
今回はその辺りについて考えます。
日本のサブカル系物語の主役はティーンか子供でなければ成り立たない
基本、サブカル系の物語って、子供やティーンが主役です。
理由は、日本の大人は自由ではないからです。いや、もっと詳しく言うのであれば自ら自由を手放した人たちだからです。
その理由を語るなら、雇用制という事実上の奴隷制度で人材の流動制がないからです。
例えばアメリカのフリーランスなら、契約にもよるのでしょうが、明日日給10ドルのギャラの仕事が明日入っていたとしても、もし100ドルの仕事依頼が来たら、10ドルの仕事を断ってもいいのだそうです。
10ドルしか出せない雇う側は納得するしかない。予定を確定させたいならその分契約して支払う必要があるということです。
つまり、労働者と雇用者は対等です。
でも日本は違います。
雇用を武器に、労働者は搾取される一方です。
でも皮肉なことに、その社会を望んでいるのは労働者側なのだと考えています。
自由による冒険か。 それとも奴隷制による安定か。 そのどちらかで、安定を選んだのが日本の労働者です。
竹中平蔵氏は個人的に好きじゃないけど、彼の「敵は正社員」という発言を皆で叩くのはその表れです。
よって日本人の大人は主人公になれません。自ら自由を手放したのですから。
日本人って学生モラトリアムが終われば事実上自由な人生は終了なのです。だから子供やティーンが主役の物語ばかりなのです。
異世界ものは暴力が快感原則
前回、異世界ものの快感原則について語りましたが、ひとつ大きなものが抜けていました。
それは暴力です。
ある意味チートがそれに被ります。正確にはチートによる絶対的な暴力です。
ゲーム世界ものならわかりますが、そうでないはずの世界でも、モンスターだからといって、ゲームのように殺していいわけがありません。
でも、異世界ものの物語の中では命が軽い作品が多いです。信じられないほどに軽い。
ゲームを基本にしているからだと思います。ポイント稼ぎ感覚で殺していい、という作り手と受け手の了解があるのだと思います。
でもね、それって本来おかしいと思いませんか。
相手がモンスターであったとしても、理由もなく殺していいわけがない。
暴力に反旗を翻すおじさん達
「異世界おじさん」と「佐々木とピーちゃん」の主人公達は、その点違います。
「異世界おじさん」の主人公「おじさん」は、人を襲うモンスターに対話を呼びかけます。
「お前にも理由があるんだろう?子供を殺されたとか…」
しかし、相手が快楽で人間を殺していたと知って、初めて暴力を行使します。
これは人里に降りてきてしまった熊を処分するのと同じだと考えます。
人間である以上、仕方ないのです。
「佐々木とピーちゃん」の主人公の佐々木さんは商社マンだけあって、異世界で商売に勤しみます。
暴力を使うのは仕方がない時だけ。むしろペット(?)のピーちゃんがそこで活躍します。肉を食う文鳥ってリアルに嫌ですけれどね…
でも現実世界も異世界も物騒な人たちばかりで、暴力に巻き込まれてばかりです。
二人とも、望んで暴力を使う人ではないのです。
でもなぜ二人はおじさんなのでしょう?
たぶん、美少女ですら暴力を振りかざす世界への反逆者である者は、おじさんでなければいけないのかもしれません。
対話と友愛を呼びかける説得力を持つものは、現実世界で理不尽なほどに虐げられているおじさんしかいなくなってしまったからなのかもしれません。
おじさん主人公の異世界もの2作を見て、そんなことを考えた次第です。
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