今を生ききるということ 金森穣×田中辰幸 『闘う舞踊団』をめぐる対話③
承認欲求と生理的反射の間で
田中 それにしても、高校を辞めてまでスイスに行くとか、なかなか持てる時間感覚じゃないですよね。教室に座っていて、いてもたってもいられなくなるって、やっぱりすごいですよ。
金森 俺は頭が悪いから、教室に座っていても授業の内容が頭に入ってこないし。授業内容がバンバン入ってきて、やりがいを感じられていれば違ったんだろうけれど。そんな感じだよ。別に「俺は舞踊家になるんだ!」と肩肘張っていたわけでもない。
田中 勉強が嫌いだったんですか?
金森 嫌いというか、授業が好きじゃなかったね。
田中 じゃあ授業サボって何をしていたんですか?
金森 高校の屋上で友達とハーモニカ吹いたりしていた。悪い生徒でした。
「違う!」と思うと嫌になっちゃうんだよね。教室に座っていると授業が始まって、先生が何かを教えてくれている。みんながノートをとっている。そこで何かが違うと思うと、とてもいられなくなり、抜け出してしまう。そういう感じだったね。全く胸を張れない学生時代です。
田中 本を読んでも感じるのですが、穣さんは終始自分に正直に生きていますよね。評価対象が外部にあり、外部からどう評価されるかを考えて振る舞うのが合理的な生き方とされる昨今ですが、穣さんには最初からそういう考えがなかった。
金森 いや、あるよ。
田中 そうか。スペインの女の子から承認されて救われた、というエピソードも書かれていますね(笑)。承認欲求は穣さんにもあった、と。
金森 承認欲求は実はすごくあったよ。うちは共働きだったから、俺は0歳から保育園に預けられていたんだけど、母親によると、夕方迎えに行くと、人見知りの姉が寂しそうにしている傍で、俺はニコニコして保育者の先生たちに気に入られていたらしい。つまり、先生や友達に認めてほしくて常に笑顔を振りまいているような子だったの。その反面、「違う!」と思ったら生理的に我慢できなくなるところもあって。その両面をずっと抱えていた。
でもそうやって授業をサボっていても、なぜか応援してくれる人が出てくるんだよね。高校を辞めたときも、ずっと厳しかった先生が「頑張れ、穣」と色紙に書いてくれたりとか。
田中 自然と人に好感を持たれる素養があるんですね。
金森 赤ちゃんの頃から鍛えられて、大人に気に入られる術を身につけたんだろうね。でもヨーロッパに出たら、どんなに笑顔を振りまいても誰も見てくれないし、承認してもくれない。あのどん底を経験したことで、精神的に刷新されたのだと思う。
葛藤はいつの時代にも
田中 本にも書かれていた「0(ゼロ)になる感覚」ですね。そういうふうに自分を追い込んでいくことの意義って、僕を含めた70年代生まれ、もしくはそれより上の世代の人たちにしか言えないことではないかという気もするんです。今の時代には、僕らのような経験は絶対にできないというか、許されなくなっている。その点については、いかがですか?
自分のすべてが0になるような経験をしたかしないかは、人生を左右する重要なことと思うけれど、それを他人に強いると暴力的に受け取られてしまう昨今じゃないですか。
金森 そうだね。でも我々が若い頃に社会や先輩たちからかけられて大変だと思っていた圧力だって、さらに上の、戦争を経験した世代は「ああ、軽くなったな」と見ていたと思うんだよね。結局いつの時代も、「俺たちのときはもっと厳しかった」とか「我々の世代はもっとハングリーだった」と言い続けているのであって。
それに、我々からすれば上の世代が緩いと思うようなことも、自分と向き合う大きな経験として刻まれているわけで。同様に、今の10代の子たちも、かれらなりに身につまされる経験をしているんじゃないか。そう思うようにしているし、そう信じるしかないと思っている。
田中 そうですよね。そもそも時代背景が違うわけで、穣さんが体験したことは、あの時代背景がなければできなかったことで。だとしたら現代においても、構造的には同じ体験がやっぱりあるんでしょうね。
金森 環境は変われど、人間の精神がそこにある限り、何らかの葛藤は常に抱えるものだと思うよ。例えば孤独にしても、我々の味わった孤独と、今の子たちが味わう孤独は、種類は違うけど孤独を味わっているという意味では同じ。孤独そのものがなくなったとは思わない。問題は、その孤独にどう向き合うか、孤独を感じたときにどう対応するかのほうだと思う。
今10代で海外に行ったとしても、家族や友達と常時つながって情報共有することができるし、日本食だって手に入る。我々の時代はそれがなかったからこそ、国や家族といった自分が残してきたものへの強烈な思いが芽生えたのだけれど、今の子たちが自分の国や家族といった大切なものに向き合わないかと言えば、そうじゃないと思う。方法が違うだけで。
田中 向き合わないことはないと思うし、孤独も感じるだろうけれど、やっぱりそこにはグラデーションがあると思うんですよね。
金森 グラデーションを言うなら、下のグラデーションの可能性もあるでしょう。かれらはこの環境のせいで、我々よりもっと身につまされる孤独を経験しているかもしれない。環境の変化は、良い方向に向かうだけではなく、必ず副作用も生む。誰とでも瞬時につながれることの孤独には、我々の経験したことのない強烈さがあるかもしれない。結局、苦痛や孤独、悩みを抱えること自体は時代が変わっても同じで、それらを抱えたときどう振る舞うかに尽きると思うね。
大事なのは、圧力にどう対処できるか
田中 だとすると、今の若い子たちには、セルフハラスメントというか、自らを追い込む能力が必要になると思うんですね。かつては制度や師匠からかけられていたプレッシャーを、自らに課していかなきゃいけない時代になっているから。そこはどうすればいいんでしょうか。
金森 でもね、我々の時代だって、そういう外圧をかけられて30人の同僚が全員奮起していたかというと、そうじゃなかったんだよ。傷ついて辞めた子はたくさんいた。自分はたまたま「くそ!」と奮起して向き合えただけで。つまり、外圧の存在が大事なのではなく、外圧を受けたときにどう対処するかが大事なのだと思う。
外圧による被害を考えれば、ないほうがいいに決まっている。外圧のない中で、内発的に情熱を燃やし続けられるのがベスト。それは難しいけれど、不可能ではないと思う。若い世代は、我々の世代にはわからない内圧の上げ方を見つけなきゃいけないんだろうね。実際に我々はもう外圧をかけてあげられないんだから。
田中 そこは新しい世代が考えていくことなんでしょうね。
インターネットであらゆる動画が見られる昨今、学ぶ環境自体はボトムアップされていますが、その弊害についても本の中では指摘されています。穣さんのヨーロッパ時代は、ネットもSNSもなく、人と安易につながれないこと自体が助けにもなっていた。そう考えたとき、今の社会状況を穣さんがどう捉えているかを整理しておきたいのですが。
金森 Noismを例にしてみようか。Noismも世代交代しているので、舞踊家との向き合い方や指導の仕方は当然、一昔前とは違ってきている。その中で、若い舞踊家たちが良くなっていかないかと言えば、決してそうじゃない。かれらなりにすごく成長してきているので、現場感覚として成長が不可能だとは思わない。みんなの可能性を肌身で感じるからこそ、自分自身も向き合い方や指導の仕方を学ばなきゃいけないな、と思っている。
田中 導き方は変わってきているんですね。
金森 そりゃそうだよ。いつまでも同じ方法でやっていけるとは思っていない。ここはある程度圧をかけて指導するけど、その後の接し方はマイルドにしようかな、とか、やっぱり考える。かれらが舞台上で最大限の力を発揮してくれることが理想なのであって、俺の言うことを聞いてくれるのが理想じゃないからね。
(④に続く)
写真:高橋トオル 協力:MOYORe:
▶︎金森穣著 『闘う舞踊団』 はこちらから
▶︎Noismを観るなら、こちら。新作公演が予定されています。
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