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【エッセイ】 賀来賢人の視線の先は… ~京都・奈良へ行く話 ① ~

 昨日、右の人差し指の先を包丁で傷つけてしまった。絆創膏を貼っているためキーボードを打ちにくい。剥がせばくっついているだろう。そんな程度の傷だった。絆創膏を取ってしまおうか。指先が不快なためか、「傷」と打つのにも、何度も「木津」になっている。

 この夏、東海道新幹線の車内メロディーがTOKIOの「AMBITIOUS JAPAN」からUAの「会いにいこう」に変わった。
 以前は「鉄道好き」を公言するのが憚られたが、ここ数年、鉄道ファンも市民権を獲得して、鉄道を取り上げたテレビ番組が毎日のようにある。「乗り鉄」「撮り鉄」…とジャンル分けまで登場して、駅の雨漏りの対処方法に着目した「漏れ鉄」なるものまである。
 「車内メロディー」も重要なポイントだ。
 開業時の東北新幹線はクリーム色に窓枠を緑に塗装した200系という車両だったが、今、1編成だけ今の車両をその色にした復刻車両が走っている。先月、仙台駅で上りの新幹線に乗ろうとホームに出たら、たまたまそれだった。当時の車内メロディーは停車駅ごと、その土地、その土地の曲だった。盛岡は「南部牛追い唄」、新花巻は「星めぐりの歌」といったように。この車両は車内メロディーまで復刻されていて、仙台駅を出発すると案内アナウンスの前に「斎太郎節」が流れてきた。
 昔、上野駅に近づくと「花」(♬春のうららの隅田川~)が流れてくるのを目安に、そろそろと降りる準備をしたことを思い出して、「花」を聞きたくなった。私は、大宮で降りるつもりで大宮までの切符を買っていたが、上野まで乗ることにした。そして、上野でまで乗って、下りに乗り換えて、切符通り大宮で下車した。

復刻色の東北新幹線E2系

会いにいこう

 東海道新幹線が「会いにいこう」に変わって、しばらくの間、「会いにいこう」の東海道新幹線のCMが流れた。
 「会いにいこう」の音楽とともに、賀来賢人が東海道新幹線に乗って東京から大阪に行く。旅の高揚感や、誰かに会いにいくワクワク感が彼の視線で絶妙に描かれている。
 タクシーで東京駅に着く、腕時計を確認しながら自動改札機を抜けて、エスカレーターでホームに出ると、視線は乗車案内の電光掲示に向いていく。ホームを滑り出すと、有楽町、東京タワー、品川と景色は流れていく。
 東海道新幹線のE席から外を眺めていると、そろそろ神奈川県も終わりだろうかと思うころに、カラフルな三角屋根のかわいい家が並ぶ丘が見える。いま風に言えば“インスタ映え”のスポットだが、そこも漏らさず映し込んでいるところが憎い。茶畑、富士山、浜名湖、727、スプーンの歯が立たないアイスクリーム、木曽三川、三洋ソーラーアーク… 沿線のツボをしっかり押さえている。
 話は行ったり来たりするが、この三洋ソーラーアークができたころは衝撃だった。上向きに反った形。今でこそ再生可能エネルギーとかいって太陽光パネルが珍しくないが、20年前にこれが大きな建物全面を覆っている姿は、進歩し続ける未来を予感させるオーラがあった(まさか、ポリクライシスの恐怖に満ちた「未来」になるとは思ってなかった…)。
 話をもとに戻す。賀来賢人の視線は雪を頂いた伊吹山に向く。

三洋ソーラーアーク

伊吹山

 伊吹山は滋賀県と岐阜県の境にある山である。眼下に琵琶湖や関ケ原を望める。
 私は伊吹山が好きだ。好きというより思い入れが深い。
 折しも、大河ドラマ『どうする家康』は11月12日に関ケ原の戦いを迎えた。関ケ原の戦いで敗れた石田三成が、7日後に捕らえられたのがこの山中だった。
 司馬遼太郎の 『関ケ原』で石田三成は「義の人」として描かれている。太閤秀吉への義を実直に貫き、計算高く隙を見て天下を狙う徳川家康と対峙していく。結局は、策略や打算で動く武将たちに翻弄され、敗者となってしまうのだが、最後までその生き方は気高い。島左近、大谷吉継など脇を固める武将たちも魅力的だ。これを読んで以来、私は石田三成が好きである。
司馬遼太郎の作品には戦国物と幕末物が多いが、戦国は「豊臣方」、幕末は「長州」寄りに立っている。私もその立場になった。
 伊吹山を見るために新幹線はE席を選ぶ。いつか伊吹山に登りたいと思いながら、それを果たせないでいることが残念だが、豊臣家や石田三成ゆかりの地はずいぶん歩いた。
 先日テレビで「寝物語の里」を取り上げていた。寝物語の里とは、伊吹山のふもと、旧中山道の近江と美濃の境に跨る集落である。集落を横切る幅50センチほどの小さな川が近江と美濃を分ける。寝物語の里という名前はおとぎ話のようであり、その由来も書きたいが長くなるので止しておく。番組の中で、そこの住民が「この道(家の前の旧中山道)を、信長も家康も行き来してたんや。ほら、すぐ向こうの関ケ原では天下分け目の戦も起こったんでなぁ。」とつい先日のことのように話していた。500年前が今の日常とつながっている感覚にくらりとした。
 名古屋から西に進むと大垣あたりから伊吹山麓となり、北陸からの季節風も入ってくるため、関ケ原のあたりは冬場雪が多い。そんな日の新幹線は温水シャワー(消雪装置)を浴びながらここを走り抜ける。そして、ここを過ぎると、米原となり、視界が開けて琵琶湖が見えはじめる。
 彦根城、ひこにゃん、井伊などで有名な彦根だが、彦根には新幹線の駅はない。金沢へ抜ける北陸本線と名古屋への東海道本線の分岐点である米原の方が昔から大きな駅だったためである。
 彦根に石田三成の居城、佐和山城があった。
 佐和山城は関ケ原の3日後に家康方によって落城している。三成の旧領を井伊直政が継承し、彦根城を築いて以降は、彦根城下が栄えていく。
「佐和山城跡」という大きな看板が新幹線に向かって立っている。私が佐和山城に登った30余年前はそんなものはなく、彦根駅から市街地を抜けて、農地の中の小道を地図を見ながら寂しく歩いた記憶がある。石垣もなく、登城する道は草茫々だった。そこを「治部様」と思いながら登った。
 私は石田三成を「治部様」と呼ぶ。三成の官位が「従五位下 治部少輔」であり、様々な小説中で三成をめぐる人々が「治部様」と呼んでいるためだ。
伊吹山を通り過ぎるときも、私は伊吹山に向かって「治部様」と呼びかけている。
 京都の東山、阿弥陀ヶ峰山頂に豊臣秀吉の墓所「豊国廟」がある。ふもとから563段の石段を登ったところに石造の五輪塔が建てられている。
私が登ったのは、肌を刺す真夏の日差しの下だった。汗をかきかき、ひたすら登った。登りきると、京の街を見下ろし、対面に生駒山まで望める広大な眺めがある。東山から街を一望できるのは清水の舞台も同じだが、この阿弥陀ヶ峰の方が高い。視界もこちらの方が気持ちいい。しかし、私は景色を眺めに563段を登ったわけでない。五輪塔を見つめて「太閤殿下!」と胸でつぶやく。恐れ多いので三成の気分は遠慮するが、島左近や宇喜多、長曾我部、真田になったような気分を噛みしめる。

伊吹山

近江商人

 近江のことに触れたので、もう少し。
 米原、彦根のあたりを東海道本線に乗っていると、並行して西武鉄道の黄色い電車が走っているのを見つけて驚いたことがある。近江鉄道という私鉄だった。相互乗入といって、他社の電車が他社の路線に乗り入れることがあるが、関東の西武の電車が滋賀で見られたことが疑問だった。調べてみると、近江鉄道は西武鉄道グループだった。なぜ、ぽつんと滋賀に西武があるかというと、堤康次郎(西武グループの創業者)が大津出身であっ
たためのようだ。
 「近江商人」と呼ばれてきたように、近江人は商いに長けている。
三井の三井高利も近江の出である。高利の父高安は、近江を治めていた守護大名佐々木六角氏に仕える武士であった。しかし、織田信長によって佐々木六角氏は滅ぼされ、主家を失った高安は伊勢松阪に逃れた。ここで高利は武士を捨てて酒や味噌を扱う商人となり、高安の官位「越後守」にちなみ「越後殿の酒屋」と周囲から呼ばれたことで「越後屋」となる。そして、「三井」の「越後屋」から「三越」になる。新潟の国名「越後」とは関係ない。
 近江商人のこの類の逸話は枚挙にいとまがない。
 
 近江には「膳所」とか「草津」とか難解な地名もあり面白い。普通列車「草津行き」とホームの表示板にあると、「湯もみ」の草津を連想してしまうが、これは違う。

 近江は奥が深い。

まもなく京都です。
東海道線、山陰線、湖西線、奈良線と近鉄線、
地下鉄線はお乗り換えです。
今日も、新幹線をご利用くださいまして、ありがとうございました。
京都を出ますと、次は終点新大阪です。

 「会いにいこう」の音楽とともに東京駅を出たこの文章も、琵琶湖を右手に見ながら、瀬田の唐橋を渡って、そろそろ京都に着く。
 先日他界した谷村新司の楽曲に「三都物語」というのがある。「三都」とは、京都、大阪、神戸を指すが、新幹線を京都で下車し、近鉄に乗り換えて奈良に行くのもいい。
 「三都」に奈良を加えて「四都」にすべきと、私は昔から思っていた。
 京都から南下し、木津川を渡ったあたりから、奈良の古朴な雰囲気が漂ってくる。次回、 奈良についても書きたい。
 
 車窓をぼんやり眺めていると、様々な感慨がある。
 そういえば、賀来賢人の視線はスマートフォンに向いていなかった。

(2023年12月 6日)


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