見出し画像

明治天皇が泊まったお堂が現代に残る? 〜橋雲寺②

前回の続き。
アイキャッチの写真はお寺の駐車スペースから撮ったもの。

頂上から降りてくる途中に石仏がならんだところがあり、観音像が並んでいる。

聖観世音

顔の雰囲気が良かったので、描いてみたくなってしまいました。

絵が下手なのはお許し下さい。笑

三十三観音を配しているようだが、詳細は不明。

護摩堂
巨大なわらじ

麓には護摩堂があり、脇にその名のとおり、護摩堂碑なるものが立っている。

碑額の隷書は円みを帯びた筆致で、横画の太さが目立つ。恐らく石工が底を掬うことで深みを演出することを意図してこのような刻し方をしたのだろう。

本文の楷書も柔らかく、穂先の命毛がすり減っている使い込んだ筆で書いたのかと推察できるが、石の質が柔らかいのではと想像する。どことなく虞世南の楷書の雰囲気が感じられ、穏やかである。

虞世南 孔子廟堂碑

さて、碑本文を読むと

此堂明治十四年九月、鳳輦東巡之日、武田清七氏新築以所為行在所也。武田氏世尊崇愛宕権現、而其護摩堂頽敗、以嘉永六年毀之。爾後三十余年、未得再建。今戸主多希子深憂之、偶同志諸氏、謀移之以改作。多希子喜諾之、実明治十九年五月二日也。於是霊場始復荘厳。乃録来由、拾石永伝後世。
明治廿二年六月廿四日 高山彰敬書

碑本文 【参考】中村良之進 著『青森県中津軽郡大浦村郷土史』

このお堂は明治14年9月に明治天皇が東巡で青森を訪れた際、武田清七氏が新築してここを天皇が寄る行在所としたところである。
武田氏は愛宕権現を崇拝していてその護摩堂がくずれ荒れた嘉永6年以来30年あまり未だ再建の目処が立ってなかったのを今の主である多希子氏は深く憂いていたが偶然にも同志諸氏が集まり、改築の運びとなった。多希子氏は喜んでこれを許諾したのが明治19年5月2日のことだった。ここに霊場がまた荘厳したことを由来して石に刻み後世に伝える。

拙訳

このように、明治天皇の行在所として建てられた処が改築されたのがこの護摩堂であるらしい。

とすると、かれこれ150年以上建つ計算になり、明治天皇行在所は全国各地にあるものの、今はもう跡形を見ることができない所が多い中でこうして残っているのは貴重。

『青森県中津軽郡大浦村郷土史』には護摩堂の説明として

「三間に六間入母屋造此の堂は右碑銘に在る如く明治十四年九月九日(陰暦閏7月13日御駐輦)明治大帝弘前御通輦の際、弘前本町金木屋呉服店武田清七には独力を以て己の邸中に新築して行在所に充て奉りし最も貴き由緒ある建築物なるを明治19年時の戸主たけ子(清七の母)より当山に寄進せし所謂県宝たるべき記念物なり、著者は此の貴き記念物に対し苟も誤解の生ぜん事を恐れ、嘗て新聞紙上に於て移転の顛末を発表せしを今参考までに左に抄録すべし。」

字を書いたのは高山彰氏。号を文堂といい、書家として名を馳せる。師が菱湖であり、晋唐書法を学んだと思われる。

勝軍愛宕山大権現
日軍大勝利 戦死供養霊 仏子 智猛代 建立

碑本文

こちらは勝軍地蔵の碑。「山」の字がカブトムシみたいでかわいい。
寺号標(前回記事:高山松堂書)と比べてこちらのほうが円みがある。この碑に書者名はないが、雰囲気からして高山松堂のと推測できる。

隷書をベースにデフォルメを効果的に取り入れており、洒脱。
似たような書風に陳鴻寿が挙げられると思うが、なんというか日本的。日本人の字だ!って感じがする。

陳鴻寿 隷書 とググった画像検索結果
日蓮聖人像

日蓮聖人像もあり、台座に隷書で次のように書かれている。

戦勝祈願 武運長久 英霊供養 五穀豊穣

書者は不明だが、畏まらずに伸びやかな感じがたまらない。高山文堂は曹全碑をよくした人物なのは前回の記事で紹介しているが、この曹全碑には碑陰があり、これの雰囲気とも似ている。

曹全碑 碑陰

もしかすると曹全碑碑陰の面白さに気づいて碑に表現したのかもしれない。この時代にこの碑陰を表現しようとした人は珍しいので、本当だとしたらなかなか歴史的な資料になるのでは?

参拝はここで終わり、近くに別の石碑があったので、それを続いて紹介。

google mapより

弘南バス愛宕バス停の目の前にあり、鳥居から歩いても1分くらいの距離。
このように2つの碑が並んでいる。

左側の碑より

正臣先生頌徳碑

こちらは新しい碑のためか、まだ石が鏡面のように反射している。

碑の本文は

花田正臣先生 本名彌作 
神刀流剣舞術の第一人者 鷹揚流詩吟の創始者 蒼龍館を創立し弘前近郊にその道を弘む 先生学深く徳厚く厳にして慈 歿後二十三年子弟追慕のあまり先生の生地に碑を建立し永く伝えんとす
昭和四十三年十月六日 蒼龍会

碑陽本文
碑陰

花田正臣先生 明治十二年生れ
二十八才上京十七年にして帰郷昭和二十一年弘前に歿す
 師の教えいと温かくおごそかに
  われらが胸に深く残りて
 蒼龍会会長 佐藤東五郎

碑陰

と書かれている。

桃園会頌徳碑

右側の碑は篆額、本文は隷書で書かれているが、摩滅が激しく、ずいぶんと読み辛くなっている。

我植田村、古来称愛宕村、以愛宕山霊場、其名頗著。山高水清、風景禍佳、灑田野豊沃、享天恵多矣。然、村人狎泰平之恩、馴致遊惰之風習、以故産業衰微、風紀類廃。誤身破産者、相次。青年花田彌作氏、蹶然興。同志青年三上健策、花田倫齋、藤惣吉、三上兵之助、三上己一、三上政吉、三上万之助、成田和次郎等諸氏、謀而設桃園会協力、説村人戒子弟実之。明治三十四年陰暦十二月十二日、即発祥之吉日也。
爾来三十有余星霜、忘寝食、従事悪習改善、興村富家。豊和気藹々、村如一家宜。我昭和五年、昭和謝恩会表彰其功績也。近郷亦無不讃其徳。嗚呼、桃園会実可謂我植田村中興之祖也。記梗概、勒石伝後昆云爾。
 昭和五年十二月 高山松堂書

碑陽 【参考】中村良之進著『青森県中津軽郡大浦村郷土史』

私たちの植田村は古来、愛宕村と称され、愛宕山霊場でもってその名はとても著名である。
山は高く、水が清らかで風光明媚なことで、禍福が入り混じる中でも豊かな実りを享受できる農地が広がっている。
天からの恵みは多いが、村人はその平和な恩恵に甘え、怠惰な生活となっている。
その風習がために産業が衰退し、風紀が廃れてしまい、誤った方向に進んで身を滅ぼし、相次いで破産者が出ている。
青年、花田彌作氏がふと奮起して、青年たちを奮い立たせようとした。
三上健策、花田倫、齋藤惣吉、三上兵之助、三上己一、三上政吉、三上万之助、成田和次郎などの諸氏と相談して桃園会を設立し、協力して村人を説得し、年少者たちを育てた。
これ実に、明治34年陰暦12月12日のことであった。
それから30年以上の歳月が過ぎ、メンバーは寝食を忘れて、悪習の改善に従事し、村家は豊かになり、和やかで気さくな雰囲気が醸し出された。
村はひとつの家族のようで、結びつきが強くなった。
昭和5年昭和謝恩会でその功績を表彰した。
近隣の里もその徳を称賛しないことはなく、「ああ、桃園会よ!」と感嘆の声が上がっている。
実にわれらが植田村の中興の祖と呼ぶにふさわしい。その梗概を石に勒して後世に伝える。

意訳

桃園会の碑の筆者は高山松堂で、高山文堂の子供。親子2代にわたって書家として活躍した。
文堂もそうだが、横画のある一画が異常に太くなっているのが特徴。これによって変化が起こり単調さから抜け出していて作品の質を上げているように思う。

また、この2碑はこの植田地区の発展に寄与した花田氏の功績を讃えて建てられた。

新岩木風土記に詳述されているが、この地は本当に豊かであったよう。でも、それが為に人々は堕落した生活を送ることになってしまった。

どうやら、産業として竹かごを作成し、売りだしたのがこの桃園会。爾来、40年はこの会が続き、この地区の発展に寄与したとある。

堕落して生きてはならないと伝えるのが桃園会の碑である。

1985年に発刊された当時も清掃されてきれいにされているとあるが、現代でもそれが引き継がれ、今に続いている。

【参考文献】
柴田重男 著『新岩木風土記 : 津軽の源流』続,津軽書房,1985.11. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9571524
中村良之進著『青森県中津軽郡大浦村郷土史』,荒谷元一,昭和9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1186405
埜本白雲 編『虞世南孔子廟堂碑』,日本書道学院,昭和19. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1139431
寧楽書道会 編『昭和新選碑法帖大観』第2輯 第7巻,寧楽書道会,昭10至14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1151223

気に入っていただけましたらサポートよろしくお願いします。幅広い地域の碑を探しに出掛けるのに使わせていただきます!