明治天皇が泊まったお堂が現代に残る? 〜橋雲寺②
前回の続き。
アイキャッチの写真はお寺の駐車スペースから撮ったもの。
頂上から降りてくる途中に石仏がならんだところがあり、観音像が並んでいる。
顔の雰囲気が良かったので、描いてみたくなってしまいました。
絵が下手なのはお許し下さい。笑
三十三観音を配しているようだが、詳細は不明。
麓には護摩堂があり、脇にその名のとおり、護摩堂碑なるものが立っている。
碑額の隷書は円みを帯びた筆致で、横画の太さが目立つ。恐らく石工が底を掬うことで深みを演出することを意図してこのような刻し方をしたのだろう。
本文の楷書も柔らかく、穂先の命毛がすり減っている使い込んだ筆で書いたのかと推察できるが、石の質が柔らかいのではと想像する。どことなく虞世南の楷書の雰囲気が感じられ、穏やかである。
さて、碑本文を読むと
このように、明治天皇の行在所として建てられた処が改築されたのがこの護摩堂であるらしい。
とすると、かれこれ150年以上建つ計算になり、明治天皇行在所は全国各地にあるものの、今はもう跡形を見ることができない所が多い中でこうして残っているのは貴重。
『青森県中津軽郡大浦村郷土史』には護摩堂の説明として
字を書いたのは高山彰氏。号を文堂といい、書家として名を馳せる。師が菱湖であり、晋唐書法を学んだと思われる。
こちらは勝軍地蔵の碑。「山」の字がカブトムシみたいでかわいい。
寺号標(前回記事:高山松堂書)と比べてこちらのほうが円みがある。この碑に書者名はないが、雰囲気からして高山松堂のと推測できる。
隷書をベースにデフォルメを効果的に取り入れており、洒脱。
似たような書風に陳鴻寿が挙げられると思うが、なんというか日本的。日本人の字だ!って感じがする。
日蓮聖人像もあり、台座に隷書で次のように書かれている。
書者は不明だが、畏まらずに伸びやかな感じがたまらない。高山文堂は曹全碑をよくした人物なのは前回の記事で紹介しているが、この曹全碑には碑陰があり、これの雰囲気とも似ている。
もしかすると曹全碑碑陰の面白さに気づいて碑に表現したのかもしれない。この時代にこの碑陰を表現しようとした人は珍しいので、本当だとしたらなかなか歴史的な資料になるのでは?
参拝はここで終わり、近くに別の石碑があったので、それを続いて紹介。
弘南バス愛宕バス停の目の前にあり、鳥居から歩いても1分くらいの距離。
このように2つの碑が並んでいる。
左側の碑より
こちらは新しい碑のためか、まだ石が鏡面のように反射している。
碑の本文は
と書かれている。
右側の碑は篆額、本文は隷書で書かれているが、摩滅が激しく、ずいぶんと読み辛くなっている。
桃園会の碑の筆者は高山松堂で、高山文堂の子供。親子2代にわたって書家として活躍した。
文堂もそうだが、横画のある一画が異常に太くなっているのが特徴。これによって変化が起こり単調さから抜け出していて作品の質を上げているように思う。
また、この2碑はこの植田地区の発展に寄与した花田氏の功績を讃えて建てられた。
新岩木風土記に詳述されているが、この地は本当に豊かであったよう。でも、それが為に人々は堕落した生活を送ることになってしまった。
どうやら、産業として竹かごを作成し、売りだしたのがこの桃園会。爾来、40年はこの会が続き、この地区の発展に寄与したとある。
堕落して生きてはならないと伝えるのが桃園会の碑である。
1985年に発刊された当時も清掃されてきれいにされているとあるが、現代でもそれが引き継がれ、今に続いている。
【参考文献】
柴田重男 著『新岩木風土記 : 津軽の源流』続,津軽書房,1985.11. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9571524
中村良之進著『青森県中津軽郡大浦村郷土史』,荒谷元一,昭和9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1186405
埜本白雲 編『虞世南孔子廟堂碑』,日本書道学院,昭和19. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1139431
寧楽書道会 編『昭和新選碑法帖大観』第2輯 第7巻,寧楽書道会,昭10至14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1151223