フランス旅)カルカソンヌ)ラグビーW杯とボードゲームな要塞都市
ラグビーワールドカップの観戦で向かったフランスのトゥールーズ。そこから電車で1時間ほど離れているのが世界遺産の要塞都市カルカソンヌです。ボードゲーム「カルカソンヌ」のモデルともなった同地を訪れました。何度にもわたる領主の交代と国境線が同地を要塞化させたことがわかりました。
名作ボードゲームのモデルの地
「カルカソンヌ」といえば、名作ボードゲームのモデルとして有名です。城壁や街道が描かれたパネルを1枚ずつめくって、出来上がった要塞都市の出来上がりで得点を競います。現地で実際にみると、まるでゲームの街並みと驚くほどの堅固な城づくりに圧倒されます。
どのような歴史をたどってこのような要塞都市となったのでしょうか。
もともとは古代ローマの都市「シテ」
カルカソンヌはもともとはガリア人が住んでいましたが、共和制ローマの下で支配下に置かれます。当時から「シテ」と呼ばれて城壁が築かれました。
この「シテ」は、ローマ下の都市を意味します。イギリス・ロンドンの「シティー」やフランス・パリの「シテ島」と同じような意味で、「市民(citizen)」の語源ともいわれます。
アルビジョワ十字軍によるフランス王の直轄領化
ローマ帝国滅亡後はカルカソンヌ伯の支配下におかれますが、そこに現れたのが前回も紹介した13世紀の「アルビジョワ十字軍」です。トゥールーズと同様に南仏で異端とされた「カタリ派」が広がったことで、カペー朝のフランス王から度重なる攻撃を受けます。
結局、敗北してカルカソンヌはフランス王の直轄領となります。当時ピレネー山脈の北まで領土を広げていたスペイン(アラゴン王国)との国境の最前線に位置していたことで、フランス王ルイ9世は要塞化を命じます。
ローマ時代の城壁を利用した要塞化
そこでは、もともと存在したローマ時代の城壁を利用した要塞化がなされます。この城壁の写真の丸いタワーの部分をよく見てください。
下の部分は城壁の石ひとつひとつが小さく、モルタルでつなぎ合わされています。さらに継ぎ目を安定されるために、時々赤レンガが層状に乗せられています。これがローマ時代の城壁です。
その上にさらに大きな石が組まれているのがわかります。こちらの方が13世紀の進んだフランス王の技術です。
30年戦争後に役割を失う
こうして最前線の基地としての役割を果たしたカルカソンヌですが、30年戦争後の1659年のピレネー条約で務めを終わります。
フランスがスペインに大勝した後のこの条約では、ピレネー山脈を境に北はフランス、南はスペインとなりました。フランスにとって、ピレネーより北の脅威が去り、カルカソンヌが最前線としての地位を失います。
百年戦争が起源の名物料理「カスレ」
カルカソンヌの名物料理が「カスレ」です。カモ肉などの肉類とインゲン豆ンなどを長時間煮込んだ料理です。
これは英仏の百年戦争(1334~1453年)の際に、イギリスの攻撃を受けたフランスの兵士に、現地の村人が供出したありあわせの具材を煮込んでできたことが発祥だといわれています。
エドワード黒太子が率いたイギリス軍が、カルカソンヌ、そしてトゥールーズに攻め込んだとの記録があります。
実際のお味は、やや単調でまあまあかな・・。でも戦時だと考えると、それも納得できるような気がします。
要塞都市に歴史あり。古代ローマ、アルビジョワ十字軍、三十年戦争。そして英仏百年戦争を通して、歴史の舞台となってきたカルカソンヌに思いをはせることができました。