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ドバイ旅)真珠のミキモトの罪、海の民と歴史なき未来都市

アラブ首長国連邦(UAE)のドバイを訪れています。これでもか!という未来都市の姿に思わず興奮がとまりません。もっとも歴史をひもとくと、海の民に支えられたドバイの都市としての成り立ちが非常に若いこと、さらに真珠のミキモトが実はドバイの産業を壊滅させたという日本との関わりがあります。

まるで画像生成AIが作成したかのような街並み

冒頭の写真は、ドバイのシンボル「ブルジュ・ハリファ」から撮影したものです。高層タワーに大型の立体交差に、、まるで画像生成AIが作成したかのような街並みの未来都市です。

下記の写真を見ると、奥の方には砂漠が広がっているのがわかります。広大な砂漠を地盤改良して建てられたタワー。都市としての余力を大きく感じます。

奥には砂漠が広がる

ドバイのシンボル、ブルジュハリファです。下はショッピングモールになっています。ドバイで多くみかけるのが、インド人とフィリピン人です。ともに英語が母語となる両国の人は、ドバイにとっては安い労働力として、彼らにとっては出稼ぎの舞台として機能しています。

さらにドバイは、華僑ならぬインド僑の拠点となっています。インドの商売人は南アジアから西アフリカまでのネットワークを持ち、富裕層はドバイで不動産を購入して財産管理の拠点としています。こうしたインドパワーを、現場で感じることができました。

ドバイのシンボル、ブルジュ・ハリファ

ドバイで最も古い城壁は1800年ごろ

ドバイの歴史を探索するために旧市街を訪れました。この城壁はドバイでもっとも古いものだといいます。それでも建設されたのは1800年ごろといいます。たったの200年前です!

ドバイで最も古い城壁はたったの200年前

それ以前のドバイは、単なる小さな漁村だといいます。曲がりなりにも都市化が始まったのが1800年ごろです。川のほとりにあるという立地はよいものでしたが、大きな貿易の拠点というわけでもないような存在でした。

川のほとりの小さなドバイ

現在でも高層タワーから少し足を伸ばせば、ドバイは川のほとりにあることが実感できます。ゆっくりと行き交う船の姿は、未来都市のドバイの姿からは少し違うものですね。

ドバイ近くの川

二大産業は海賊と真珠

そんなドバイの二代産業は、海賊と真珠でした。イギリスの東インド会社の近くを通る船を狙い、あたりは海賊海岸と呼ばれました。もっとも19世紀には同地域の部族が英国と休戦協定を結んで、休戦海岸と呼ばれるようになります。

また1900年ごろまで、多くの男性が天然真珠の漁業に従事をしました。下記の写真のような船を使って、漁業が営まれました。

漁業に使われていた船

ミキモトの罪

ドバイの歴史館を訪れると、ある日本人がこのドバイの天然真珠産業を壊滅させたというアナウンスが流れ、驚きました。それは真珠のミキモトでおなじみ、初代の御木本幸吉です。

御木本幸吉は養殖真珠の生産方法を開発したことで、1896年に特許を取得。天然真珠の価格が下落したことで、ドバイの産業は壊滅的な打撃を受けました。

さて、ドバイはどうする?

二大産業の海賊と真珠を失ったドバイ。現代からわずか100年前のことです。ここから現在の未来都市に行き着くのは、本来は到底あり得ないことだと感じます。さて、ここからどのように奇跡の経済発展を遂げたのか、次回の記事で書きたいと思います。

19世紀後半でもドバイはこのぐらいの発展度合い

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