【共通テスト2024解説】 アレクサンドロスをどう見るか?
1月13日に実施された2024年度の大学入試共通テストで、アレクサンドロス大王に関する問題が出題されました。
世界史Bの共通テストは次の追試験の問題で最後となります。
まだすべての日程が終わらず、そわそわしているところですが、次年度からはじまる世界史探究の共通テストの方針をうらなう上でも、気になる出題でしたので、そわそわの紛らわしにピックアップしてみます。
結論から言えば、おそらく、作問のベースにあるのは、森谷公俊氏の著作です。
以前からアレクサンドロス大王の扱い方はその評価の変遷が肝と考えてきましたので、いくつかの雑文を書き、授業でもふれてきたところでした。
この興亡の世界史『アレクサンドロスの征服と神話』とくに第1章を引きながら見ていくことにしましょう。
問題の冒頭部分
高町さんという大学生(?)が、古代の著作家の作品のなかに現れるアレクサンドロスが、アジアの人々や文化に対して異なる態度をとっていたことを指摘する問題で、著作の要約が資料1から4まで用意されています。
多文化主義者としてのアレクサンドロス
まず資料1からみてみましょう。
アレクサンドロスはマケドニア王国の王であったわけですが、前334年より東方遠征を開始し、アケメネス朝ペルシアの支配していたバビロンに入城します。
このとき、アレクサンドロスが、バビロンの人々にどのように対応したかという資料です。
このときの入城の様子については、クルティウスという人物が伝記に残しています。
この入城儀礼は、サルゴン 2 世もキュロス 2 世もおこなったバビロンの伝統的儀礼でした。
バビロンはアレクサンドロスに先立つ数千年の歴史を持つ、オリエントの最先端の都市。この都市の支配層の支持を取り付けなければ、オリエント支配はままなりません。
そこで大王はバビロンの神殿と聖域を尊重することを布告したのです。ただ、結果としてバビロン市民との関係が良好であり続けたわけではありません。これについては、昨年こちらで詳しく書きました。
文明の与え手としてのアレクサンドロス
次は資料2を見てみましょう。
アレクサンドロス大王の入城後、ペルシアの子供たちが、ソフォクレスやエウリピデスといったアテネ(ギリシャの都市国家)の悲劇詩人の劇作品に触れたという内容にくわえ、70以上の「アレクサンドリア」と呼ばれる都市を建設したというもの。
そうすることによって「東方の未開で野蛮な生活習俗」を克服したとあります。
ペルシア戦争期においては、むしろギリシャ人にとってペルシャの文化は憧れの的でした(阿部拓司『アケメネス朝ペルシア―史上初の世界帝国』中公新書、2021)。
しかし、両者の関係がアレクサンドロス時代には反転し、ペルシャがギリシャを見習うようになった。ギリシャがペルシャを文明化したのだ。
「ヘレニズム」概念を提唱した歴史家ドロイゼンしかり、19世紀のヨーロッパで盛んになった見方ですね。
ヨーロッパがアジアを植民地化するのは、文明をひろげるためなのだ。 ——かつてアレクサンドロス大王が東方に光を与えたのと同じように、というわけです!
あちゃー、という感じですが、この文明/野蛮の対立図式は、今回の共通テストのほかの読み取り問題にも見え、ある意味通底するテーマ、重要視されているトピックでありました。
実際、次の解答番号11でも、アレクサンドロスに対する19世紀の歴史家の評価が「文明化の使命」を帯びていた点に着目させる出題がなされています。
次の指導要領にもとづく次年度の共通テスト「世界史探究」では、世界史探究が歴史総合で学んだ観点にもとづく位置付けがされています。
歴史総合の観点でいうところの「統合と分化」の問題性に切り込んだものですね。ですから、今後もこの種の観点に基づく出題は続くでしょう。
ペルシア戦争の報復者としてのアレクサンドロス
脱線しました。戻りましょう。次は資料3です。
アレクサンドロスがペルセポリスの宮殿を焼き払ったのは、150年前、すなわちペルシア戦争のさいに、ペルシアがギリシアを攻撃したことの報復であるという語り口です。
たしかにアレクサンドロスのペルシア征服には、かつてのペルシア戦争の「報復」を意識するところがあった点にふれる史料もあります。
ただ、ペルセポリスへの放火の動機には「定説」はありません。これについて森谷は、次のように解説します。
また、「報復」の側面を強調しすぎることは、ペルシアとギリシャ世界の関係を見誤る元となってしまうおそれもあります(そもそも、ギリシャ世界に属し、その盟主を誇るようになったマケドニア王国の出自にも、非ギリシャ的なところがありました)。
史料の多くがローマ時代に記されたことから、ローマの歴史家がアレクサンドロスの倒したアケメネス朝を、パルティアやササン朝とダブらせていたとも考えられます。
ペルシアかぶれの「暴君」としてのアレクサンドロス
最後に資料4。
アレクサンドロスのまとっていたペルシア風の衣装に対して、諫言を呈するどころか、酒を飲んで余計な駄弁を弄したために、やはり酒に酔ったアレクサンドロスに刺殺されてしまった部下の話。
この部下の名はクレイトスで、怒りに任せたアレクサンドロスの激情を避難したのは、とりわけ帝政ローマ時代の知識人でした。
たとえばセネカが「怒りについて」においてこの行為を非難しています。
これは知識人や支配層の間に、理性による感情の制圧を説くストア派が流行していたからですね。
また、ギリシャにおいては、あのアテネにおいてもペルシャ趣味はひろがっていました。
ギリシャ=ヨーロッパなのだから、遅れたアジアのほうが、むしろギリシャを見習うのが当たり前だろう、という誤った前提に立ってしまうと、このへんのところが、よくわからなくなってしまいますよね。
問題番号11について
このクレイトスの話は、先ほどあげた問題番号11にもつながるので、ついでにこちらも見ておきましょう。
ここにあげられた評価Ⅰ・Ⅱは、上記の資料1〜4のような史料にもとづいて形づくられたものであるとし、史料をもとにした評価が、なぜそのようになったのか(時代背景)を問う問題です。
歴史的事実とされるものは、まず史料の特質によって、さらにそれをどのように選定し解釈するかの前提となる時代背景に左右され、形成されていく。次期指導要領の「歴史総合」と「世界史探究」で強調されている歴史学的な実証のあり方について、共通テストでは、ある意味フライング的な形でこれまでも出題されてきました。
とはいえ今回は「共和政末期のローマ」と「19世紀後半のヨーロッパ」の状況を正しく記した選択肢を選べれば解けてしまうので、内在的によみとく必要はありませんでした。
なお、評価Ⅰ にある「共和政末期のローマの知識人は、「アジアの風習で堕落した暴君」と否定的に評価した」とありますが、その正反対に、アレクサンドロスのことを崇拝していた人も、かなり多かった。
たとえば、第一回三頭政治に参加したポンペイウスとカエサルは、ともにかなりのアレクサンドロス・フリーク。
アレクサンドロスに対する崇敬は、特に民衆からの高い評価は、ローマ帝国の時代にはいっても続きます。
西の大国であるササン朝が、かつてアレクサンドロスの倒したアケメネス朝と重ね合わされたためです。
これに対して、問題番号11の評価Ⅰの述べるように、知識人の評価は低かった。
ですから、問題番号11の評価Ⅰもまた、ローマにおける数あるアレクサンドロス大王評価の一つと見なければなりません。
なお、キリスト教的な価値観から中世におけるアレクサンドロス評価は低く、復活に転じるのは近世から。
しかし、アレクサンドロスのどのような人格的側面を強調するにせよ、元ネタとなる『大王伝』のほとんどがローマ時代に描かれ、しかもそれら各『大王伝』の内容にも当なバリエーションがありました。
これについて森谷は次のように注意をうながします。
歴史上の人物をどのように評価するべきか。
そのプロセスを問題を通して指南するかのような出題でした。
最後に
アレクサンドロス大王が後世になって多面的な評価を受けているという話は、冒頭に挙げた森谷公俊氏の著作(たとえば興亡の世界史『アレクサンドロスの征服と神話』とくに第1章)のほかに、山川出版社の「世界史リブレット 人」シリーズの『アレクサンドロス大王』の最終章もコンパクトに内容が詰まっており、おすすめです。
これに限らず、人物に対する評価の移り変わりや、受容の変遷の歴史を学ぶ上で、「世界史リブレット 人」シリーズはとても良い。おすすめです。