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普通って、生きてきた道らしいよ。
「普通、ウェディングドレスは着たいよ! 結婚式は女子の憧れ〜!」
「え、子ども欲しくないの? 女性って普通、子どもは産みたいものかと。へぇ……そういう女性もいるんだね」
「19時からMTG入れたから。は? 定時? いや仕事だから。残業なんて、社会人なら普通だよ」
「好きなバンドの歌詞が掲載された広告がクレームで取り下げられた! なんで!! 普通に良い歌詞なのに……!」
「普通、コップを使ったらすぐ洗うでしょう。どうしてシンクに置きっぱなしにするかなぁ……」
「普通」とは、何なのだろうか。法律で定められているわけでもなければ、規則として決まっているわけでもない「普通」という概念。
辞書を引いてみると、下記のように書いてあった。
ふ-つう【普通】
読み方:ふつう
[名・形動]特に変わっていないこと。ごくありふれたものであること。それがあたりまえであること。また、そのさま。
特に変わっていない。
ごくありふれたもの。
あたりまえであること。
先に挙げた5つの事例は、果たして「普通」に当てはまる出来事なのだろうか。
気づいたら、わたしたちの側にいる「普通」。
じぶんのなかにある「普通」から外れた行為を目にすると、人は途端に相手を「異常だ」「非常識な人だ」と見做して軽蔑する。まるでじぶんの「普通」が正義であるかのように堂々と剣を抜いて刃先を向ける。
空気に溶けた見えない「普通」というルールは時に、人間を苦しめているのではないだろうか、と思う。
「普通、ウェディングドレスは着たいよ! 結婚式は女子の憧れ〜!」
この世界に生まれたすべての女の子が、結婚式に憧れを抱いているというのは、本当なのだろうか。
すべての女の子がウェディングドレスを着たいと切望しているのだろうか。
事実わたしは女性だが、結婚式にもウェディングドレスにも、憧れは抱いていない。もちろんドレスを見たら「綺麗だな」「素敵だな」という感情は浮かんでくるし、ウェディングドレスを着ている人を見たら「美しいな」と感じることもできる。
だけれど、その感情がイコール「わたしも着たい」「結婚式で着たい」に繋がるわけではない。"着たくない"わけではないけれど、"わざわざ"着なくてもいい、という感覚だ。
「え、子ども欲しくないの? 女性って普通、子どもは産みたいものかと。へぇ……そういう女性もいるんだね」
女性は皆、子どもを産み育てたいと思っているのだろうか。
"子どもを産める"という力が、女性だけに備わっていることは事実。だけれど産める特権があるからと言って、すべての女性が子どもを産みたいと思っているわけではない。
上記はわたしが実際に友だちのパートナーに言われた言葉なのだけれど、"わたし"という人間を、女性という大きな括りでしか見てくれていないことに悲しさを覚えたものだ。
「19時からMTG入れたから。は? 定時? いや仕事だから。残業なんて、社会人なら普通だぞ」
残業をすることは、社会人として当たり前の出来事なのだろうか。定時退社は普通ではない異常な行動なのだろうか。
わたしたちの人生は、わたしたち自身のものであって、会社のものでも、上司のものでもない。就業規則に従って、1日8時間×週5勤務で働いているにも関わらず、当たり前のように残業を強いる環境は正しいのだろうか。
一応、補足しておくと、決して残業が「悪」であると言っているわけではない。残業を強制する環境の存在に対して述べていることを理解しておいてほしい。
「好きなバンドの歌詞が掲載された広告がクレームで取り下げられた! なんで!! 普通に良い歌詞なのに酷い……!」
歌詞の良し悪しに議論の余地はないけれど、広告として扱う場合、その「普通」は適用されるのだろうか。
2022年の4月頃、My Hair is Badというスリーピースロックバンドが、渋谷に広告を掲出した。マイヘアファンに向けてサブスク解禁を大々的にうったえる代表曲『真赤』の歌詞を使った広告だ。
わたしも『真赤』は好きだ。ロックフェスに赴いたときにも何度も聞いたし、ファンからも熱望される一曲。けれど歌詞の一部を抜粋した広告は、マイヘアを知らない人から見ると、一部の人を侮辱したように受け取られてしまう可能性も否めないという意見が散見された。
繰り返すが、歌詞の良し悪しに議論の余地は全くないけれど、大衆が目にする広告という媒体では、適応されない表現もあるのだろう。
「普通、コップを使ったらすぐ洗うでしょう。どうしてシンクに置きっぱなしにするかなぁ……」
飲み終わったコップは、必ずすぐに洗わなければならないのだろうか。
「後で洗う」という選択肢をもっていては、いけないのだろうか。
人によって洗うタイミングが異なって当たり前で、その事象に対して「普通」というカードを切るのは、どうなんだろう。そのカードを提示する前に、相手を知るという行動を挟むべきではないだろうか。
ーーと、いくつか事例をあげてみたけれど、「普通」に対する考え方の違いによって、わたしたち人間はときにぶつかり合い、傷つけあってしまうことがある。
けれど本来「普通」なんてものは存在しない。「普通」を巡って争う理由もない。そこにあるのは「価値観」であって、「普通」ではないはずだ。
普通とは、生きてきた道なのだ。
これまで歩んできた人生の道のりのなかで、わたしたちはじぶんだけの「普通」という感覚を育てながら進んでいく。
砂漠を歩いてきた人と、海沿いを歩いてきた人では価値観が異なるのは当たり前のこと。わたしたちは、じぶんとは異なる価値観にであったときに、即座に反発しあうのではなく「なぜそう思うのか」という背景に着目して、相手が生きてきた道を見ることが必要なのかもしれない。理解したり、受け入れたりするかどうかは、またその先の話。背景を知っても、理解できない価値観だったら「わたしには分からない」で済ませても良いと思う。
ただ、一方通行でしか物事を見ずに発言することで、知らずうちに「普通」の刃で他人を傷つけてしまうことがある。
だから、普通とは生きてきた道によって形成されているということを、忘れずにいたいなと思う。
by セカイハルカ