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祈りとしての弔い


心豊かな社会のためには1人1人が人間性の徳を高める大切さを以下で先日書いた。才があっても徳がなければ社会は幸せにならない。

徳を積むって具体的にどんなことなんだろう。
利他的に生きるってなんだろう。

そう考えていたら1つの仮説が言葉になったので記録しておく。


祈ることと願うこと

祈り・願いは時に並列の言葉として使用されがち。

でも私の中でこの2つは絶対的に違うと考えている。

どの宗教を信じているか、どの国に暮らすかでそのニュアンスは異なるものの、信仰の本質は祈りだという解釈もある。

そう聞くと、人ならざりし神仏に「我を助け給え」が祈ることと誤解されがちだけれどそれは違う。

祈りの語源は諸説あるが「意を宣る」から「祈る」になったというのが主説とされている。意訳すると「神仏に宣言すること」が祈り。

例えば神社に行って願ってはいけないというような話を聞いたことがないだろうか。

例をあげよう。

願い:「病気が治りますように」
祈り:「病気が治るように努力しますので見守っていてください」

頭に浮かぶ困りごとや願望ではなく、祈りを通して自分と向き合い、自分はどのようにここにあるのか。どのように生きてきたいと己が思っているのか。

自身の深層心理と向き合い、「このように生きていきます」と決意表明することが神仏に祈ることの本質だと言われている。

日常にも祈りはある。

「いってらっしゃい」
「いってきます」

これに祈りの解釈を添えると

「いってらっしゃい(どうか、無事に戻ってきますように)」
「いってきます(どうか、あなたの元に無事にもどってくることができますように)」

となるように思う。

「世界平和を祈る」
「1日も早い被災地の復興を祈る」
「大切な人の快癒を祈る」
「無事の出産を祈る」
「この成長を祈る」
「苦しまずに枯れるようにあの世へいくことを祈る」

このように祈りには自分だけのことではなく、周囲の幸せや無事をふくめた意味合いがふくまれがちだ。

つまり、あくまで私の解釈だけれども願いは利己、祈りは利他と言えるかもしれない。

自分だけの幸せを求めるのが「願い」。自分を含め、大切な人や他者の幸せを求めることが「祈り」。

だとするならば、「願い」の量よりも「祈り」の量が多くなれば自然と人間性は高まり、徳が高い人間性に育つのではないかと思う。

最初は偽善的でもいい。人間でなくてもいい。植物や動物でもいい。自分以外のなにかのために祈れる人が増えればこの社会はその分だけ優しくなり、生きやすい社会になるんではないかと思う。

祈りの反対は呪うこと

祈りは大切。他方で呪いは気をつけなければいけないと思っている。五寸釘で・・・というようなまじないだけが呪いじゃない。

恨みそねみ、妬みひがみ、怒り。

そのどれもが人生の中で誰しも少しは感じる感情であり呪いの素。

それらに思考を任せてしまうと思考が真っ黒になり、気がつけば誰かや何かを呪っていしまっている。これを弊社では「他責」という。

親、配偶者、兄弟、親戚、子供、友人。学校、職場、地域。

自分は悪くなく、今自分が辛いのは誰かや何かのせいであるという思考に陥るのが「他責」。

他責は楽だ。自分と向き合わず、かわいそうな自分、哀れな自分を嘆き、そうたらしめている周囲のせいにすれば自分は努力しなくてもいい。

でも他責が過ぎるとそれは呪いになる。呪いは言葉になると周囲に伝染する。

「お前のせいでこうなった」
「◯◯のせいでこうなった」
「なんで◯◯はああなのだ」

言葉には言霊がある。関係性が深いほど記号ではなくちゃんと言葉としてその人の脳に届き、呪いは刻まれる。

それがいわゆる心因性障害の原因になっていることが多々ある。私も呪いを刻まれきたからわかる。それは解呪しようにもそう簡単にはいかない。

恐ろしい事に呪いをうけた人の思想や認知を歪め、人生の幸福度を下げ、幸せになることを阻害する。自分よりも幸福なものを見ると非難するか周囲に責任を問えずにはおられず、どんどん負のオーラが蔓延していく。

ただし、呪われた側が自分が呪われていることを自覚し、他者を呪わないことを決めればそれ以上伝染はしない。

一方で呪われた側が無自覚で、息をするように自分も周囲を呪いだすと負の連鎖が止まらない。1つのコミュニティでこれが広がると脱出するしか逃げる方法はないほどに。

そして、呪っている本人ももはや呪いに飲み込まれて呪っても呪っても楽にはならずただ苦しいのにもうどうしていいか分からない。

そんな負の連鎖にはいってしまってはもう祈るどころではない。自分のことでいっぱいで、自分の希望を願うことしかできなくなり、自己的な思想の人間ができあがっていく。

それは本人にとっても周囲にとっても悲しいことだ。そしてそんな人ばかりが増えた社会が不幸せなのは自明だ。

だからこそ祈ることで自分と向き合い、自分の真の祈りに気づき、誰も呪わずに済む人生を生きることは己と周囲、そして社会のためにも大切だと思う。

呪いに苦しむ人も他者の祈りによって救われ、自分を少しづつ肯定できることだってある。私がそうであったように。

私は確かに自分の中に呪いが刻まれている。だけど、そのあまりの辛さから誰のことも呪わずに生きるために自分の祈りと向き合って生きていたいと子どものころからおもってきた。

もちろん簡単にはいかなかった。でも私自身が幸運にも私の幸せを祈ってもらえたことで、少しずつ解呪され、他人の幸せを祈ることができるよになった。

そして、できれば祈るだけではなく、すこしでも祈りを実現できるようになりたいと念じていた頃に、精進できる環境が与えられて本当に幸運だった。

1度刻まれた呪いは0にはならない。できれば呪いなんて受けないほうがいい。

それでも祈れる自分であるために努力してきて、それでよかったと思っている。誰かを呪うよりも祈れる自分のほうが圧倒的に幸せだし、こんな自分でも誰かの役に立てると知ることができたから。

弔うという祈り

私が本分としている弔いの領域も本質的には祈りだとおもっている。

亡くなった人の人生を労い、魂の安寧を信じて弔う。

それは、自分の人生の1部でもあったその人に感謝し、亡き後も幸せであれと祈ることだと思う。

もちろん故人との残された人の関係性次第で呪いが生まれてしまうこともある。

でも弔いの場で呪いになりきるまえに儀式を通して浄化されたり、宗教者によってその人が握りしめていた呪いを一喝して解除されることもあるのを私は知っている。

つまり、祈るにしろ、呪いを断ち切るにしろ、弔いは1つの契機となる。

そのために宗教者や儀式や葬儀社や周辺のプレイヤーがいる。

祈り不在の弔いがあるとすれば、それはもはやビジネス優位の葬儀やお墓は形骸化と言われても仕方ないのかもしれない。

祈り方もわからない人が多い中で、祈りを大切にしない葬儀社、石材店、宗教者によって1つの売上として処理されてしまった遺体・遺骨の故人や遺族が不憫でならない。

同じ時代に、祈りを中心とした手厚い弔いが存在するにも関わらず他方で産業主義的な葬儀やお墓に人の祈りが形になる前に消えていく様は無惨だ。

弔いに関わる人間は、残された人がいなくなってしまった人と向き合い、祈る時間を保証することが仕事だと私は思う。その対価として寄付や売上が発生する。

そうでなければ本質を欠いた文化などなくてよいのだから、淘汰されてあっというまに市場ごと劣悪化する。

私たち弔いに関わる仕事というのは、祈る人を増やすお手伝いでもあると思う。

その価値は、数字には換算できないけれど社会的資源として計り知れない重要性と価値をはらんでいるはずで、見過ごせないとおもっている。

だからこそ、真に祈ることができ、人の祈りを導くことができる宗教者が増えることは重要だ。

そして私は弔い周辺のプレイヤーのみなさんと協力しながら、宗教者と祈りも願いも呪いも抱えた生活者との接点を作り、祈ることを促していく仕組みやお手伝いがしたい。

そのための弊社の寺院の課題発見・解決事業だと思っている。

トレンドや資本主義で「祈ること」が濁ってしまわないように、宗教者と共に「祈ること」を支援し、守っていきたい。



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