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周山街道をゆく chapter2-7 愛宕詣

→chapter2-6 清滝(2)

僕の家業は鋳物屋である。
毎年11月8日はお火炊き祭(火の神様)の日で溶鉱炉(キュウポラ)の前で神事を行い、家内安全を祈願し、酒やお火焚き饅頭を皆に配る。

お火焚き饅頭
京都の和菓子屋ではこの日に合わせて紅白饅頭を造る処が多い

京都の火を扱う所はたいてい同様のことをする習わしがある。特に老舗料理屋は月番制で毎月愛宕神社(旧称阿多古神社)にお参りし、帰りにお札を貰って来て、会員にお配りするという。京都では旧家の家庭のガスレンジ付近や飲食店の厨房に貼っているところが多い。

阿多古祀符火迺要慎

愛宕神社へは登山である。その辺の街中の神社とはわけが違う。江戸時代には庶民の間に愛宕信仰「火伏せの神」が盛んになり、奥嵯峨野の鳥居本はその門前町として栄えた、全国に900社ある愛宕神社の総本社である。中国の五台山にちなんで愛宕五寺があった。白雲寺(愛宕大権現)・月輪寺・神願寺(神護寺)・日輪寺・伝法寺である。白雲寺は愛宕神社になり、月輪寺・神護寺は現存するが、残りの二寺は消滅したとされる。特に千日詣り(7月23日~8月1日)をすると千日間の功徳が得られるとされ、毎年数万人が訪れる。また3歳までに詣るとその子は一生火難から逃れるとされている。僕の高校時代の嵯峨の旧家の友人も息子をおんぶして詣っている。

愛宕さんは月参りの看板

僕は清滝バス停で休憩していたが、そろそろ時間を持て余してきた。何もせずじっと待つのは好きではない。危険な清滝トンネルを通らず試峠を越えることにした。峠と言ってもそれほど高くはない。愛宕詣に初めて行く人がこの峠を試しに越えることができれば(体力)愛宕山は十分に登れるに違いないとされた。故に試す峠(こころみとおげ)と呼ばれるようになったという。愛宕山鉄道のトンネルができる(昭和初期)までこの峠を越えるのが正規ルートであった。

清滝トンネル
清滝側
試峠の案内板

この峠道は嵐山・高雄パークウエイの下を2回潜る。1回目は上り始めて最初のカーブを曲がってすぐのところ、2回目はその後、渦巻状に登り峠でその下を潜る。熟女ランナーがゆっくりと追いついて来た。足腰を鍛えるのにちょうど良いコースなのかもしれない。僕は「こんにちは」あいさつしたが、気持ちにゆとりがないのか黙ったまま追い越して行った。普段は車すら通らない。静か過ぎる峠だ。

試峠
 嵐山・高雄パークウエイの下を潜る

峠を下っているとジョギング姿の男性が登って来た。こちらの走りは力強い。
「こんにちは」
「こんにちは」

彼はあいさつにきちんと答え、笑顔のまま通り過ぎて行った。ちなみに愛宕登山には京都らしい言い回しがある。

「おくだりやす」「おのぼりやす」特段の説明は要らないだろう。

僕は坂道を下りると清滝トンネルの片側交互通行の信号の前に出た。愛宕寺の前には大勢の外国人観光客がいた。ここが奥嵯峨巡りの終点だ。愛宕寺バス停にも数人の外国人観光客がバスを待っていた。時刻表と腕時計を見比べてまだ到着がだいぶ先であることを確認した。

愛宕(念仏)寺

清滝トンネルを嵯峨野側から見て昭和初めここに鉄道が走っていた時代をイメージした。時代にもしはタブーだが、戦争がなければ清滝一体は日本を代表する一大リゾート観光地になっていたかもしれない。しかし今日、開発を免れ、観光公害に晒されなかった清滝は昔ながらの霊験あらたかな愛宕山と豊かな自然恵まれた清滝川を維持している。結果、これで良かったのではないだろうか。

ソロ活女子風の女性が
「試峠は行くにはどこを通れば良いか」を尋ねて来たので今来た方角を指差した。
「峠まではすぐですから」と言った。
女性は会釈し試峠に向かった。

何も知らない観光客は清滝トンネルを歩行もしくはレンタサイクルで通る。排気ガスはきつく、道は狭く暗い。歩道はなく何より歩行者・自転車にとって安全ではない。僕は車以外でこのトンネルを通ることはお勧めしない。

一之鳥居を望む

バスまで十分な時間があるので愛宕(念仏)寺から旧街道を行くことにした。毎度のことだが、少し道幅があるところには複数の貸切タクシーが停車し、奥嵯峨を散策し戻って来る自分の客を待っている。その前をたくさんのが外国人観光客が歩いている。そう言えばコロナ前は中国系観光客が大半を占めていたが、今は欧米系が特段増えたように思える。米中対立や 不動産不況の影響で中国系の勢いが落ちたことも影響をしているのかもしれない。インバンドとよく耳にするが、コロナ以前に比べ趣向が変わって来ていると思う。

chapter2-8 鳥居本→

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