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目指せ!整体マイスター ~第一章~ ダメリーマンから、整体師への成長物語

皆さん、こんにちは。

東京都品川区で開業している「大井町カイロプラクティック」院長の宮崎です。

当院では、毎月紙媒体のニュースレターを発行しており、2019年1月で118号となりました。

そして2012年6月。私が人生どん底状態から、どのようにここまで登りつめたかの自伝の連載を開始したのです。

連載は6年間続き、去年最終回を迎えました。

ニュースレターの中では、断トツの評価を患者さんにいただいています。

私が、何故サラリーマンを20代で辞めて、個人事業主になったのか?

ブログ等で活動している私を知り、何故そんなにマルチに行動出来るのか?

皆さん、興味があるようです。

小説や映画、アニメでもそうですが、レールから外れた人生での成長記録というのは、面白いものです。

それが、最初に悲惨であればあるほど。

そして、今回noteで公開させていただく物語は、現在の私が昔話を笑い話に出来るくらいの状態になっているので、一応ハッピーエンドです(笑)

この物語は、今まで当院に来られていて、ニュースレターを受け取った方しか読む事が出来ませんでした。

縁のある方限定だったんですね。


しかし、noteで公開させていただく事により、

「こんな残念な人生の人でも、ここまで来れるんだ…、なんかやる気が出てきたぞ!」

と、奮起する人が日本中に出てきたら嬉しいなと思った訳です。

ハッキリ言って、大抵の方は、19年前の私よりはマシな状況という方が大半のはず。

私が、どんな人なのかは、サイトやブログを見ていただければ良いと思います。

サイト:「品川区大井町の整体院 大井町カイロプラクティック」

ブログ:「考える整体師 大井町カイロプラクティック」


さて、6年間連載した「目指せ!整体マイスター ダメリーマンから、整体師への成長物語」

少々長くなるので、分けて書いていきたいと思います。

まずは、第一章をまとめてみましたよ。

何章までいくのやら。

さて!このページを開いてしまった縁のある貴方。

最後までお付き合いくださいね(笑)


序章 鬱なダメリーマン悩む

時は、1999年。

整体業界を目指す前、私はサービスエンジニアでした。
社員だったので、事務をやりつつ、現場に出る毎日です。
徹夜もあり、ガテン系であり、人間関係などかなり厳しいものがありましたね。

気が弱かった私は、かなり鍛えられました(笑)

そして、重度の消耗。

そして入社して2年半。

24歳の時です。
今にして思えば、軽度の鬱(うつ)だったと思います。
こうなりたいと思える先輩や上司も無く、このまま30歳になったら…と、かなり焦っていました。
このままだと、思っていた人生と違う。
先が見えず、毎日が悩んで苦しむ状態が続いて、心身共にダメージが蓄積していきます。
そんな状態なので、現場で致命的なミスをしてしまい、心が折れて会社に行けなくなってしまったのです。

心身共に追い込まれていた私は、いつもの状態ではなかったんでしょう。

現場で、クライアントの配電盤をショートさせてしまったのです。
一緒に作業していた方の目の前で、200ボルトの電気が散りました。

200ボルトとは…命に関わるレベルです。

ピカチュウが10万ボルトなので、200ボルトがそんなに危ないとは知らない方は多いでしょうが(笑)

幸い怪我人は無かったので、少し怒られて嫌味を言われる位で済んだ…と今だから思えますが、他人を危険にさらしてしまって、更にそれが自分の通常の状態では考えられない凡ミスという事もあり、自分のあまりの不甲斐なさに完全に心が折れて意気消沈。
会社には、本当に迷惑を掛けたと思っています。
会社に出社出来なくなり、当時の所長に相談して退社。

この時点で25歳。

少々ウツっぽくて、身体の調子も悪く、やりたい事も分からない、背伸びして買った車の為に貯金も少ない無職となったわけです。
実家に住んでいたので、肩身が狭かったですね。

一番底辺だった時代でした。
この時の事は、実はあまり良く覚えていません。

独断で仕事を辞めてしまった私を、両親は心配そうに何も言わずに見守っていたように記憶していますが…。
私は、情けないやら、不安やらで押しつぶされそうでした。
せっかく団塊ジュニア世代の就職難の中、苦労して入った会社だったのに…。

仕事を辞めてからは、失業保険をもらいながら、ぶらぶらしたり旅行に行ったりしていました。
今にして思えば、時間が沢山あるんだから、あれもこれもやっておけば良かったと思います。
しかし、当時はパソコンも持ってなかったし、本も何を読んでいいのか分からず。
経験もかなり不足していたし、考える力が鍛えられていなかったんですね。だから、とにかく分からない。
相談できるような人も、コミュニケーション能力の不足が人生で長く続いたのが祟って、いません。
合気道の道場には通い続けていたので、居場所が道場と自分の部屋だけ。

一人悶々と考え、旅行先の安宿にて一人で川の流れる音を聞きながら、漠然と「これからどうしよう…。」と考えていました。
ドラマや映画のように、何か人生を変えるような事件もイベントも起きません。
焦りだけが募りましたね~。

このままでは、まずい。何かやらないと…。
と思いましたが、なんせ超貧乏で頭も悪い(笑)
車を早く手放せば良かったのですが、決断が遅れてしまったのです。
そして収入が無いのに、サラリーマンだった頃の基準の税金は容赦なく請求されます。
手持ちのお金が残金1万円になって、不安で手が震えてきた事もあります。
自分のバカさ加減に、またもや意気消沈。
自慢の車も、追突されたり、いたずらされたり…。
嫌な事ばかりが、続きました。

今にして思えば、行動もしてない私が物語の主人公になれるわけがありませんね。
ダメなメンタルと行動に、相応しい状態だったというだけの事です。

教訓「ツイテない、上手くいかない時は、自分がそのステージだという事」

しかし、とにかく何かやらなきゃ!と思っていた私は手探りで一歩出す事になります。

とにかく、バイトでも始めなければ!やりたい事が見つかったら、すぐに辞められるし、色々なバイトをやったら、何か分かってくるかも…?

そんな感じで、人生初のフリーター生活が始まりました。
同時に、スポーツクラブにも通いだしました。
そして、バイトで海苔とお茶の店で朝から夜まで働きながら、道場とスポーツクラブで体を鍛える日々に突入です。


ダメリーマン手探りで動く・・・!


スポーツクラブでは、エアロビクスやマシントレーニングで、体格と体質が変わるまで体を鍛えていましたね。
実は、この時のエアロビのインストラクターは、あのクリス松村さんでした。
彼?のお陰で、楽しくトレーニング出来たと思っています。
テレビはあまり見ないので、数年前にテレビで見た時はビックリしましたが(笑)
まさか芸能界にデビューしてるとは。
当時から面白くて、良い方って印象でしたよ。
私はコミニケーション能力の不足の為に、クリス松村さんとあまり話せませんでした…。
もったいないですね~。
「宮びーん!元気~?」とか話かけてくれたんですが。

それが、ありがたかったです。
そういや、何故「宮びん」だったんでしょう?(笑)
とにかく、その後スポーツクラブには週に3回ほど一年間通わせていただきました。

道場では、合気道を続けて腕が落ちないようにしていました。

道場は、週に1回くらい。
今になって考えると、継続していて良かったと思えます。
現在、合気道を始めてから2019年で20年です。
本当は、合気道どころじゃないよ~(泣)って感じなのですが、それどころじゃなくても、将来に向けて何か出来ていた訳ではなかったので、継続していて正解だったわけですね。
考える力が無かった当時の私としては上出来でしょう。

教訓「どんな状況でも、何か積み上げる」

なんせ、この時に通っていた道場の師範の1人が、私の武道の師匠として、後々の私の人生に大きく影響するのだから。

とりあえず、不安な気持ちを何とかしたくて、がむしゃらに鍛えて、フリーターやってた時代でした。
しかし、自分のやりたい事は分からず。
私って、何がしたいんだ…とかグルグル悩んでました。

そしてある時、「そうだ!本屋に行こう!なんかヒントがあるかも…」と思いついたのです。

閃いた…!
当時、ネットの普及も少なく、パソコンも持ってなかったので、調べるなら本かな~と思ったわけです。

そしたら、蒲田の駅ビルの本屋で「ライセンスブック」のコーナーを発見。色々な職業の内容や、その仕事に就く為にはどうしたらいいか、その職業に就いている方のコメントなどが書かれている本が沢山棚に収まっていたのです。

その中に「なりたい!はり・きゅう・カイロプラクティック」という本を発見。
鍼灸師か…。そういや、なりたいかも?
と思い、何となく購入。


この本が私の運命を変えました。

教訓「ほんのちょっとの信号を見逃すべからず」

目指せ!カイロプラクター

さて、その本にカイロプラクターの話とかが載っていて、すっかりその気になった私は、とりあえずカイロの学校に資料請求したんです。

そしたら当然ですが、どこも良い事ばかり書いてあります。

結局は、当時ネットも発達してなかったので、情報は資料請求して送ってもらった資料のみ。

よく分からなくて、偵察に行く事にしました。
当時車を持っていたので、本に紹介されていた学校を回ってみたのです。


そしたら、すでに空きテナントだったり、見るからに怪しそうな建物だったり…。
やはり、カイロ何とかなんて今まで聞いた事なかったし、怪しい業界なのか?また目標を探さないといけないのか…。
と落ち込んでました。

その時、家にカイロ学校から封書が来ました。

中身を見てみると、それは新校舎が出来た事と学校説明会の案内でした。

なんのあても無い私は、とりあえず行く事にしましたが、ここでまた運命が変わりました。
そこは、当時カイロプラクティックの業界では一番大きいマンモス校。

見学に行った私に二時間ほど話をしてくれた実技担当の先生がいたのです。嬉しかったですねー。
もう十年以上前なので、会話の内容は覚えていませんが、この学校にしよう!という決心が固まったんです。
授業風景も明るい感じだし、先生も頭良さそうだし、感じがいいと思ったんですね。

しかし、金銭面がガッカリ状態だった私は、そのまま一年フリーターで貯金しながら過ごします。
その間は、図書館でカイロプラクティックや健康に関する本を読んで、備えていました。

そして、親に保証人をお願いして国民金融公庫で借金。

次の年に入学する事になります。

行動力あるように見えますが、他に選択肢が無い(笑)


そして、学生へ

入学したのは、本校である新宿校でなく、分校の横浜校にしました。
横浜校は出来てから二年経ってなかったので、少人数制で教えてもらうには良い環境だと思ったんですね。
それは、当たりでもあり、ハズレでもあった訳ですが(笑)
一流のカイロプラクターになるぞ!という新しい夢と目標を持ちながら、バイトしながらの学生生活が始まりました。

昼はコンビニでバイトしながら、18時から21時までの夜間部に通う生活に突入。

学生になり、何やら新鮮な気持ちになったりしました。
夜間部は働きながら通う人が多く、全員で9名でした。
一人20代の女性がいましたが、すぐに辞めてしまい…。
その後は、私とほぼ同年齢の3人が最年少でしたね。

座学では医者や整体・カイロプラクティックの大先輩が受け持っていて、実技は大先輩や学校の卒業生が担当してました。

色々な人達がいて、こんな世界もあるんだなあ~と思いましたね。
びっくりしたのが、趣味で学んでいる方もいた事です。
全部で200万位かかるんですが…。
私は、生活も人生もかかっていて、必死で学ぼうという気持ちだったので、無意識に皆そうなんだろうと思っていました。

当時は、整体・カイロプラクティックの学校の乱立時代。
整体師やカイロプラクターが大量生産された時代です。
大先輩方も、いわゆる変人が多く、人づきあいが苦手な私は苦労しました(笑)
今は、かなり改善されましたが、業界自体のサービス業という意識も低かったと思います。
教育システムも、かなーり不完全(笑)

そんな混沌とした状況で一人前になるべく、勉強して行動するのは、今思えば貴重な経験でした。

自分の中の常識が、ボロボロと崩れて価値観に大きく影響が出てくる良い切っ掛けだったと思います。

教訓「黎明期の混沌はチャンス」

学校に入る事により、何とか軌道に乗れそうで安心…と思いきや。

このまま学校に通うだけではダメだという事に気が付くのに、そんなに時間は掛からなかったのです。

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