育児にコスパなんていらない
コスパコスパ、とわかったような言い方をする人ほど、「コスト」と「パフォーマンス」が何なのか、もう一度考え直した方がいいのではないかと、最近感じるようになった。
2022年11月、ChatGPT(GPT-3.5)がローンチされ、世界に衝撃が走った。AI時代の始まりである。私は後から知ったが、技術的にはこの程度のことはすでに可能だったらしい。しかし、一般の人が使える形、つまりチャット形式で誰もが手軽に利用できるようにしたのが革命的だったようだ。
それからというもの、ChatGPTをはじめとするさまざまな生成AIが開発され、多くの作業が効率化されている。将来、人の仕事はなくなるかもしれない、とまで言われ始め、自分の仕事はどうなるのか、と不安に感じる人も増えている。
最近ではスマホにまでAIが搭載されている。集合写真で目をつぶった人の目を笑顔に変えたり、写り込んだ他人を消したり、曇り空を快晴に変えたりと、その活用方法は多岐にわたる。
しかし、写真とは本来、そういうものだっただろうか。
集合写真で「お前、目つぶってるじゃん!」と笑い合ったり。
赤ちゃんの写真を撮って「この時、お腹空いてたのか眠かったのか、なかなか笑ってくれなくてね」と思い出話をしたり。
本来、「写真を撮る」とは、そういった「一瞬を切り取り」「思い出をモノとして記録する」行為だったはずだ。それがどうだろう。今のAIスマホで記録している一瞬は、もはや事実ではない。AIで天気を改ざんし、表情を改ざんし、背景を改ざんし、「インスタ映え」するように補正されたデジタルデータである。色味を調整するのとは訳が違うと思うのだ。
家族や友人と撮った写真で、誰かが目をつぶっていたり、思わぬ表情をしていたりする瞬間。それらはその場の雰囲気や感情をそのまま映し出した、かけがえのない思い出だ。それをAIで修正し、笑顔に変えてしまう。私もしっくりくる言葉が見当たらないのだが、何かを失い、何かが薄れてしまっているような感覚に襲われる。
便利さを追求するあまり、私たちは大切なものを見失っていないだろうか。AIがもたらす見栄えの良い写真や効率的な作業は、一見すると魅力的だ。しかし、その背後で、何かを失っているように感じる。
いや。「便利さを追求するあまり」と書いたが、そもそも、これは便利なことだろうか。
AI時代だからこそ、その中で自分たちが本当に必要としているものは何かを考え、選択する力を持ち続けたい。
「生きる」とは、「コスト」を払い「パフォーマンス」を得ながら、生命活動を維持していくことだと思う。その際、何が自分にとってコストで、何がどんなパフォーマンスとなるのかを決めるのは自分だ。
文章を書くのに時間がかかったっていいではないか。その分、人間らしく味わい深いものになったかもしれない。
エクセルの関数がすぐ出てこなくて試行錯誤したっていいではないか。おかげで、本来したかったこととは別のことが勉強になるかもしれない。
育児に手間暇がかかることはコストだろうか。育児が大変なことは間違いない。子供を育ててお金が稼げるわけではないから、コスパが悪いという考え方もあるかもしれない。
しかし、育児を経験した人ならわかるだろう。「わたしはこの瞬間を味わうためにこれまで生きてきた」とさえ感じられるような、子どもの笑顔に触れた瞬間。「おとうさん」「おかあさん」と呼んでくれる瞬間。これは、何を払い何を得るかというような、そういう打算的な生き方とは全く異なる世界線上にある。
自分の人生に、他のものなんて要らないとさえ思える、何物にも代えがたい尊いなにか。かと思えば、次の瞬間には「もう知らない。勝手にして!」と置いていきたくなったり。
そういう感情の起伏を経て、ごめんね、大好きなのにね、と心の絆を強めあい、その翌日にまた怒ってみせたりして。親子も、夫婦も、人とはそういうものだと、経験の中から学んでいくのも人生であったはずだ。
子どもたちにも、「効率」や「成果」だけではなく、遊びや失敗、試行錯誤の中から学ぶ喜びを感じてほしい。泥だらけになって遊ぶ経験や、自分で考えて問題を解決する経験をたくさんしてほしい。それも、将来の糧となるはずだ。
育児はまさに、効率やコスパとは無縁の世界だ。手間も時間もかかるし、思い通りにならないことの連続だ。
しかし、その手間さえ愛おしくなるような、そういうものが「子育て」であり、「親が育つこと」でもあり、「生きていくこと」そのものでもあると思う。
それでいいではないか。そう、思えるようになった。