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フィリピン留学記⑬Batangas(バタンガス)の旅はあかんやつ
毎度おなじみの過酷旅行シリーズだが、経験するたびに次は絶対もう行かないと固く心に誓っていた。
だが、なぜか前回のDingalan旅での誓いは効力が切れたらしく、私はまた深夜2時に集合場所のマックの前に立っていた。
旅の始まり
正直自分の中で過酷な旅が徐々に心地いいものになってしまっている。
イスラムで言う「ラマダン」、スポーツで言う「マラソン」、銭湯で言う「サウナ」
マニラで言う「過酷旅」
は本質的に同列なのかもしれない。
今回向かった先はBatangas(バタンガス)ビーチに位置する離島、Fortune Islands(フォーチュンアイランド)だ。
狭い車移動はもう慣れてしまい、前日に体力を温存することだけを考えたおかげか、それほど苦ではなかった。
「今回は調子いいかも」と内心思ったが、とんだ勘違いだということに気づくのはそう遅くはなかった。
まず最初に訪れた試練は船乗りである。
Bangka(バンカ)というフィリピンの伝統的な船は、メインの船体の横に翼のような竹が装備されており、荒波に遭遇してもうまく反動を吸収してバランスを保つようにできている。
産業革命以前ならモーターエンジンは使われていなかったはずだが、時代の変化につれこの船はエンジンを装備するようになった。
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Bangkaは速度を手に入れる代わりに快適さを失った。
船中に響き続ける「ドガがガガガが」というエンジン音はたやすく我々の声をかき消し、鼓膜を破壊した。
乗船時間はなんと1時間強。その間仲間たちと会話が一切できず、時間が過ぎ去るのを揺れる水面の上で耐えるしかなかった。
島に上陸したころには船酔いによる吐き気と、スタングレネードを喰らったように耳鳴りが延々とし続けていた。
上陸
島の上は綺麗だったとことが唯一の救いだったと言えるだろう。
フォーチュンアイランドは現在無人島だが、1995年に「フォーチュン・アイランド・リゾート・クラブ」という会員制高級リゾートとして建設される予定だったが、台風や自然災害の発生により建設が断念されてしまった。
そのおかげか、この島には消滅しかけているパルテノン神殿や古代ギリシャ像、それからダイビングスポットなど、さまざまなリゾート建設の名残が残っていた。
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海は若干濁っていたが、目を細めれば綺麗であった。あいにくこの日は波が激しく、泳ぐたびにまるで漂着物のように砂浜の上に押し戻されてしまう。さらには波に乗っかった大量の小石たちが一斉に突撃してくるので、多少怪我をするのは覚悟した方がいいだろう。
その後もチーム対抗で綱引きを遊んだり、ビーチバレーをしたり、写真撮影をしたりしてリゾートを満喫することができた。
帰りはまたBangkaで鼓膜を徐々に損壊しながら、無事旅を終えることができた。
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マスツーリズムについて
私が「過酷旅行」と題しているものはマスツーリズムという観光形態のことを指している。具体的には安価で行ける団体旅行やパッケージツアーのことである。
なぜ私が過酷という言葉を使ったかというと、この観光形態は「コスパ」を重視するあまり、他の重要な要素を度外視してしまうことが多いからだ。
例えば、ごみの持ち込みで生じる環境破壊や、肉体と精神の疲労度合いが考慮されない旅行プランなど、様々な問題点を抱えている。
さらに、パッケージツアーは観光客が主体的にプランを構成することが必要ではないため、本来旅の醍醐味である客とホストの間で構築されるはずだった信頼関係や友情が生じるはずもない。
だが、マスツーリズムは裕福層の余暇活動であった旅行を他の社会階層にいる人たちもアクセスできるようになったのも事実である。
我々は余暇を体験する方法をもらったが、いまだに余暇の楽しみ方を知らないのかもしれない。
まるで使いこなせない道具を授かった子供のように。