小説『空生講徒然雲4』
『もの生む空の世界』に「暮らす」者は私ひとりきりではなかった。御師という務めは専門職ようなものだ。私は単なるバイク専門の御師なのだ。
だから、それぞれの御師のもとに行者が現れてくる。それ故に『空生講』の行者は途切れる事はない。
行者は、この『もの生む空の世界』に唐突にあらわれる。それこそがこの世界においてのありふれたことなのだ。
縁あってこの世界にたどり着いた行者は、夏に多く、冬には極端に少なかった。何に例えられればよいのかと頭をひねるのだが、キッチンの隅で「ひとつ見つけた」、のだが、その黒光りする虫を例から却下して、よいものが思いつかない。
梅雨とか夏祭りとか花火大会で、いいのかも知れない。
行者は好んで夏をえらび、冬を敬遠しているわけでもない。季節は直接的には関係していない。それは単なる母数なのだ。とりわけ、夏の母数は冬の母数とは桁が違った。間接的には、そうなるのだ。
夏に、バイクの走行が増える。冬の場合は、バイクから降りる者も沢山いる。バイクは冬眠するのだ。すると、冬の母数は減ることになる。
バイクの冬眠中に私の務めは、ほとんどない。開店休業のようなもので、たいへんよろこばしい。
私は暇つぶしに『もの生む空の世界』で、奇怪な万物を、うんと生んで過ごしていればよいのだった。私の冬は、ほとんどひとりきりだ。冬の日というものはそういうものなのだ。それはすばらしい。この世界にとっての平穏が、私の心に灯りをともす。
『もの生む空の世界』の行者は、『無ヰ者』なのだ。無ヰ者とは、不慮のオートバイ事故によって『ない者』となった魂(いのち)のことだ。
『無ヰ者』はその言葉のとおり、ない。無だ。どこのだれかもわからない。
一切ない、無。ない者なのだ。
この『無ヰ者』という名、どうだろう。もう、勘の鋭い紳士淑女であれば、わかるだろう。これが私のネーミングセンスの実力だ。いまでは、他の御師にも使うことをすすめている。千日前の若気の至りでもある。少し心臓がきゅっとなるときがあるが。
つまり、この世界の私の務めは、オートバイ事故の『無ヰ者』の彷徨う魂を、無辜の魂となるよう導く者として存在しているのだ。どこのだれがどうして私を選び、この世界をつくったのか。それは謎だ。
それを私が『もの生む空の世界』と、勝手に名付けて暮らしている。そして、走るのだ。この世界と私は一種のモータリゼーションの徒花だ。
私は『無ヰ者行者」の魂を慰めていたい。いつまでも走りつづけていたい。それが御師の私の務めだ。筋に戻ろう。
だから、残念ながら、『もの生む空の世界』の夏はたいへん賑やかなのだ。夏は忙しい。『無ヰ者』が後を絶たないのだ。
私は冬がすきだ。暇だからね。
言い忘れていた。
私の職業は、『空生講徒然雲御師無ヰ者行者鎮魂走係千日』です。
縮めて、『ツーリングライダー』でもいい。『空生講ライダー』でもいい。
わかりにくいので、行者には「ツーリングの御師」といっている。