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原発政策に抗う浪江【希望の牧場】

牛とともに事故の悲惨さ伝え続ける


 避難指示が出された浪江町で、牧場に残り牛を飼育し続けた男性がいる。牧場は原発被災地をめぐるツアーのスポットとなっており、男性は原発事故の悲惨さを伝えるとともに、国の原発政策や復興政策について批判的な意見を発信し続けている。震災・原発事故から9年、現状をどう見ているのか。牧場を訪ねてじっくりと話を聞いた。

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 阿武隈山系の裾野を南北に走る県道34号相馬浪江線(通称山麓線)。南へ向かって車を走らせると、南相馬市小高区から浪江町に差し掛かるあたりで、「除染解除してもサヨナラ浪江町」と書かれた、赤と黄色の強烈な手書き看板が見えてくる。

 「町に帰還することばかりでなく、町民が避難先で幸せを求めていくことも正しい選択であると認めるべきだという思いを込めて、看板を立てました」

 こう語るのは、この地で「希望の牧場・ふくしま」を運営している吉澤正巳さん(65)だ。

吉澤さん

 約30㌶の敷地内で黒毛和牛260頭を飼育している。これらの牛は「福島第一原発20㌔圏内の家畜は殺処分せよ」という国の指示に逆らい、避難指示も無視して残った吉澤さんにより飼育されてきたものだ。

 牛は放射性物質を大量に取り込んでいるので、もう〝売り物〟にはならない。ただ、吉澤さんは「原発事故の生きた証拠」と捉え、寄付金や東電からもらった賠償金などを切り崩しながらこの間世話を続けている。

 「飼育費用は年間1000万円前後かかりますが、活動方針に共鳴してくれた協力者の皆さんにご寄付をいただいたり、食品加工工場やスーパーの廃棄物を好意で安く譲っていただけるおかげで、飼育を維持できています。基本的には二地域居住している姉と2人で運営していますが、ボランティアの方も定期的に訪れて、牧場の仕事を手伝ってくれるので助かります」(吉澤さん)

 こうした活動を続ける一方で、原発政策や復興政策について積極的にメッセージを発信し続ける。冒頭の看板もその一つだ。それらのメッセージは全国の協力者により、各種メディアやSNSで発信されている。

 「外国人の被災地ツアーを受け入れ、福島県の現状や課題について説明しています。外国から招かれて講演することも増えており、最近もインドやヨルダン、フランスなどに行ってきました」(同)

 同牧場はもともと吉澤さんの父親が作ったものだ。満州引き揚げ、シベリア抑留を経て、千葉県四街道市で開墾した後、浪江町に移住して酪農業を始めた。東京農業大を卒業した吉澤さんも手伝うようになり、紆余曲折を経て運営を任されるようになった。畜産業の㈲エム牧場(二本松市)の傘下に入り、吉澤さんは浪江農場の農場長として330頭の黒毛和牛の繁殖・肥育などを任されていた。だが、2011(平成23)年3月11日以降、その生活は一変する。

 震災で牧場の施設の一部は潰れ、牧草地は地割れし、停電になった。発電機を回し牛に水を与えたが、同12日早朝には、福島第一原発が電源喪失により原子炉冷却不能となったことから原発半径10㌔に避難指示が出され、町民は津島地区に避難するよう防災無線で呼びかけられた。

 同日午後には1号機が水素爆発を起こし、同牧場の一角で通信の中継をしていた県警も早々に引き上げた。続けて3号機、4号機で水素爆発が起き、2号機が炉心損傷したことで、大量の放射性物質が放出された。

 同16日にはエム牧場の村田淳社長(当時)のすすめで、牧場にいた姉とおいがエム牧場本社のある二本松市に避難し、そこから千葉県四街道市の自宅に帰っていった。村田社長からは「出荷先から3月分の牛の引き取りを断られた」と告げられた。牛の経済価値が0円になったことを意味していた。

 それでも〝牛飼い〟として牛を見捨てられず、残っていた吉澤さんは、同17日、同牧場から14㌔先にある福島第一原発の様子をふと双眼鏡で眺めた。すると、自衛隊の大型輸送ヘリが3号機建屋に海水を投下し、白い噴煙が上がる様子が見えた。

 東電も一時撤退したと報じられたぐらいの原発事故なのに、自衛隊は事故収束のため決死の覚悟で活動しているのか――そう感じた吉澤さんはいてもたってもいられなくなり、牧場内のタンクに「決死救命、団結!」と書き置きし、翌18日朝、東京に向かった。行き先は内幸町の東京電力本店。入口前で警察に囲まれたが、「牛330頭を置いてきた。水も飲めないし、えさもないから全滅するだろう。もう浪江町に帰れないかもしれない。だから今日は覚悟を決めてきた!」と涙ながらに訴えたところ、1階ロビーに通された。

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 私服警官が同席する中、吉澤さんは全滅する牛を弁償してほしいこと、自衛隊が決死の覚悟で対応しているのだから東電も撤退せず事故を収束させてほしいと伝えた。東電社員は涙を流して聞いてくれた。

 車で寝泊まりしながらそのまま1週間ほど東京に滞在し、農水省や原子力安全・保安院、首相官邸などを訪ね、自分の主張を伝え続けた。

黒毛和牛に現れた白い斑点

 「おそらく福島県で最初に東電本店に乗り込んだ人間が私だと思います」(吉澤さん)

 牧場に戻ると、「脱走して野生化するリスクはあるものの、この牛たちを餓死させるわけにはいかない」という村田社長の判断により、牛は放牧され、3日に1度えさを運び込む形で、何とか命をつないでいた。

 原発事故後、多くの畜産・酪農家は家族同然の家畜を泣く泣く置いて避難し、20㌔圏内では約1700頭の牛が餓死・病死した。死体にはうじ虫がたかり、至るところに骨と皮のミイラがある状況だった。

 そうした判断もやむを得ないと考えていた吉澤さんだったが、村田社長の判断を受け、「牛をできる限り生かし続けるようにしよう」という覚悟が固まった。

 原発20㌔圏内は立ち入りが制限され、検問が張られていたが、吉澤さんは裏道を使いバリケードを移動させるなどして牛のえさを運び込み、牧場で寝泊まりしながら牛の飼育を続けた。浪江町と南相馬市小高区の境界線上に立地しており、警備体制の抜け道があったのも幸いした。 

 4月22日に避難区域が再編され、20㌔圏内が警戒区域になって以降は警備が強化され、警察と押し問答になった。だが、民主党福島災害対策本部の副部長を務め、警戒区域内に取り残された動物の救済に関心を寄せていた高邑勉衆院議員(当時)と出会い、アドバイスをもらった。その結果、家畜の衛生管理・学術研究などの理由で、警戒区域内に出入りできるようになった。

 同年5月12日には国が、取り残された家畜全頭の安楽死処分を決定し、農水省や福島県家畜保健所の職員により、野生化した家畜が次々と薬殺された。そうした中、高邑氏を中心に、それらの家畜を救うプロジェクトが立ち上げられた。そのとき高邑氏から「牛たちは放射能汚染の事故を記録に残す〝生きた証拠〟になる」と言われたのを受けて、吉澤さんは同プロジェクトの受け皿になることを決め、同年7月、「希望の牧場・ふくしま」をスタートさせた。同名の一般社団法人も設立し、吉澤さんが代表に就いた。

 ただ、国の決定に従わない同牧場への風当たりは強かった。当初は「被災動物を実験に使うのか」というクレームが寄せられ、牧場の入り口の手書き看板の撤去を南相馬市役所から命じられた。同牧場の牛が脱走して周囲の民家を荒らし、同業者である酪農家から「俺たちは苦渋の決断で牛を鎖でつないだまま避難した。お前たちは周りの迷惑も考えず牛を放して生かし続けるのか。なぜ殺処分に同意しないのか」と糾弾された。

 それでも吉澤さんは「自分たちの思いはいつかきっと分かってもらえる」と、同牧場の敷地にすべて電気柵を取り付けるなど改善策を講じながら、粛々と牧場運営を続けた。

 2011年冬には、同牧場に残され売り物にならなかった牛の賠償金が入り、村田社長に後の対応を一任され、自己負担で肥育を続ける道を選んだ。だが、スタート当初は資金的に十分でなく、栄養価の高い高価なえさは与えられなかったため、栄養不足で死んでいく牛も多かった。原発事故前後で牛の頭数が一致しないのはそのためだ。

 そのうち、牛の一部には見慣れない白い斑点が出てきた。

 「複数の獣医によると、皮膚病などではなく、メラニン色素の突然変異とのことですが、長年〝牛飼い〟をやっている自分でも見たことがない症状でした。旧警戒区域内で再開している牧場でも一部の牛に白い斑点が出たようです」 

 国に原因究明をしてほしいと考えた吉澤さんは2014(平成26)年、症状が出ている牛を実際に見てもらい、調査を要望しようと考え、家畜車に載せて霞が関の農林水産省に向かった。実際に牛を下ろそうとして警察ともみ合いになったが、林芳正農水相(当時)に直接会うことができ、調査や殺処分の中止などを求める要望書を提出した。

 「その後、実際に農水省に調査してもらったのですが、結論は『原因は分からない』というもので、たらい回しで終わりました。私は原発事故の影響と見ており、そういう意味でもこの牛たちを生かしていくことに価値があると考えています」

150回にわたり全国で演説

 こうして吉澤さんの話を聞いていくと、〝売り物〟にならない多くの牛を飼育し続けてきたのはもとより、考えたことをすぐ実行し、意見を述べていく姿に圧倒される。

 原発事故直後の2011年3月には、福島県農民連を中心とした農業従事者による抗議活動に参加し、牛の親子を連れて行った。宣伝用の軽ワゴンに車載スピーカーを搭載した〝自家製街宣車〟で東京の新橋や渋谷、さらには沖縄にまで出かけていき、原発政策への批判や脱原発の重要性を主張する。その回数は9年間で150回に上る。 

 そのルーツは学生時代にあった。

 「昔から自分の考えをマイクで話すのが好きで、東京農業大時代には、全日本学生自治会総連合(全学連)学生自治会の委員長を務めるなど、学生運動に熱中していました。その後は共産党に入党し、県議選にも3度立候補しています(いずれも落選)。一昨年には浪江町長選にも無所属で立候補しました。原発事故後、党派に関係なく多くの人に出会ったこともあり、いまは党派を超えて広く連携する必要を感じています」(同)

 活動の一環で、東北電力浪江・小高原発建設計画の反対運動に加わった。同計画は地権者の同意が得られず、計画が繰り延べされる状態が続く中で、震災・原発事故が発生し、計画断念に至った。「浪江町は原発建設を阻止し、原発事故により大きな被害を受けた地。だからこそ、この地から脱原発を訴えていかなければならない」と吉澤さんは語る。

 震災・原発事故から9年。牛とともに浪江町を見つめてきた吉澤さんは、町の完全な復興は今後も難しいとみている。

 「9年も経てば避難先に根付いている人がほとんどで、〝復興イベント〟が開かれて多くの町民が一時的に集まったとしても、夕方には現在の居住地に帰っていく。要するに、いまや浪江町は実際に住む場所ではなく、たまに帰って懐かしむ〝思い出の場所〟になっているのです」

 「現在の帰還者(※約835人)がかつての人口(2011年3月約2万1500人)まで戻ることはないし、税収が減る中で被災地対象の予算措置がどこまで続くかも分からない。個人的には『浪江町』という自治体は残すべきだと考えますが、帰還者は増えず、住宅解体工事により更地だらけになり、職員や町議も町外に家族が住んでいる人が多い。身の程に合わせて縮小していくか、近隣町村と合併するしか道はない。本音の議論をしていくべきです」

 2018(平成30)年に死去した馬場有前町長は、町を存続させる〝町のこし〟をスローガンに掲げていたが、吉澤さんは次のように指摘する。

 「確かに浪江町が朽ちていくのは寂しいし、原発事故を引き起こした東電や原発政策を推進した国には怒りを覚える。だが、それを受忍して、人それぞれさまざまな選択肢があるという視点で、町は町民の選択を支援すべきだと思います。『生まれたところで死にたい』という高齢者もいれば、『孫と離れ離れになるのは寂しい』と思う高齢者もいるでしょう。だから私は、(冒頭に紹介した)『除染解除してもサヨナラ浪江町』という看板を立てたのです。中には怒る人もいましたが、みんな内心では分かっていると思いますよ」

「復興五輪」に異を唱えていく

 原発事故は浪江町をはじめ福島県に深刻な被害をもたらしたが、全国で原発再稼働が推進され、政府は原発輸出にこだわり続けている。再生可能エネルギーの導入は進んでいるが、社会全体で変わっていく機運はみられず、そうしている間に原発事故の記憶は県外で風化しつつある。

 3月4日には双葉町の帰還困難区域の一部と避難指示解除準備区域、3月5日には大熊町の帰還困難区域の一部が解除となった。3月14日にはJR常磐線の富岡―浪江間の運行再開により、9年ぶりの全線復旧となり、3月26日にはJヴィレッジから聖火リレーがスタートする。このまま7、8月の東京オリンピック・パラリンピックまで、復興ムード・お祭りムードが続くだろう。

 しかし、吉澤さんはそうした雰囲気に正面から立ち向かう考えだ。

 「震災・原発事故の混乱を連想させた映画『シン・ゴジラ』にあやかり、『カウ・ゴジラ』と名乗って、牧場の牛を模した彫刻作品『望郷の牛』とともに演説を行っているんです。東京さえ発展すればいいというエゴにまみれた『復興五輪』に沸き立つ日本で、『カウ・ゴジラ』が暴れまくって、『3・11はまだ終わっていない』、『原発に依存した生活を見直し、新エネルギーに移行すべきだ』と訴え続けていきます。寿命15~20年の牛たちが生きているうちに、日本社会の変革を実現したいですね」

 牛とともに原発政策に異を唱える吉澤さんの戦いは今後も続く。

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