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【除本理史】【原発訴訟】明暗分かれた2つの高裁判決

求められる賠償指針の見直し

軽んじられた小高区「ふるさとの喪失」


損害認定の明暗

 今年3月、原発事故被害者による集団訴訟で、初の高裁判決が言い渡された。2つの判決があり、仙台高裁が3月12日、東京高裁が3月17日であった。いずれも避難指示等が出された地域からの避難者が原告となっており、被告は東京電力(以下、東電)のみである。

 1つ目の裁判は、全国の集団訴訟の中で、最も早く提起された「福島原発避難者訴訟」(第1陣)である。2018年3月に福島地裁いわき支部で判決が出され、その後、仙台高裁で審理が進められていた。もう1つは、南相馬市小高区・原町区からの避難者による「小高に生きる訴訟」で、2018年2月に東京地裁で判決が出され、その後、東京高裁で審理が進められていた。

 2高裁の判決は、いずれも東電に賠償を命じたが、認容額を見ると、一審判決に比べて仙台高裁が総額約1億2000万円を上積みしたのに対し、東京高裁は3分の1に減額するという内容であった。両判決で明暗が分かれたといえる(表1)。その大きな理由は、筆者が「ふるさとの喪失」と呼んできた被害に対する判断の違いによる。

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「ふるさとの喪失」  とは何か

 「ふるさとの喪失」とは、避難元地域での日々の暮らし、そしてそれを支える諸条件の一切を奪われたことによる被害である。ここで「ふるさと」とは、〝昔すごした懐かしい場所〟というよく使われる意味ではなく、人びとが日常生活を送り、生業を営んでいた場としての〝地域〟をさしている。私たちが、住み慣れた地域でごく当たり前の日常生活を送るということは、当然守られるべき権利だ。

 この被害に関し、筆者は本誌1月号で、飯舘村で生まれ育った男性の言葉を紹介した。飯舘村は、住民自治と地域づくりの努力を長年積み重ねてきたことで知られる。「ふるさとの喪失」は原発被災地に共通する被害だが、特にこうした取り組みに力を注いできた地域では、その成果や展望を奪われたことが一層深い苦痛をもたらす。

 今年2月、発災9年を前にして、ある飯舘村民が、村づくりの歴史と原発事故の被害を記した本を出版した(菅野哲『〈全村避難〉を生きる――生存・生活権を破壊した福島第一原発「過酷」事故』言叢社)。これを読むと、「ふるさとの喪失」の深刻さが伝わってくる。

 著者の両親は、敗戦直後から飯舘村で農地を開拓し、牛を飼い堆肥をつくり、土壌の改良を重ねてきた。著者もその農地を引き継いで、震災直前には銀杏を植え、多くの高原野菜をつくり、その成果を次の世代に手渡そうとしていた。こうした大地からの恵みはもちろんのこと、風土や景観、文化、あるいは村民同士の深い結びつきといったものが、すべて人びとの営みの積み重ねによるものであり、村民の生活を成り立たせるうえで不可欠の条件だった。

 こうした条件の一切を奪われたことが、原発事故被害の核心である。これらは直ちには金銭的な損害としてはあらわれない。しかし、それは重大な「生活価値」の破壊であり、損害賠償請求の対象とされるべきなのである。

 ただし、「ふるさとの喪失」は避難者だけの被害ではない。帰還した人や滞在者(避難しなかった、あるいは短期間で帰還した人)の「ふるさとの変質、変容」をも含めて考える必要がある。

 2014年4月以降、避難指示の解除が進み、2017年春には3万2000人に対する指示が解かれた。しかし、住民帰還の見通しは明るくない。役場を戻し、事故収束、廃炉、除染などの作業で人口が流入したとしても、住民が入れ替わってしまえば、事故前のコミュニティーは回復しない。原発事故によってひとたび住民の大規模な避難がなされると、地域社会を元どおりに回復するのは極めて困難だ。住民が避難元に戻っても、「ふるさとの喪失」被害が解消されるわけではない。

 政府や東電は「復興」を強調するが、廃炉や汚染水問題などからも明らかなように、原子力災害の影響は長期に及ぶ。司法はこうした現実を直視すべきだろう。

東京高裁判決の問題点

 国や東電は、「ふるさとの喪失」を慰謝料の対象として認めていない。しかし、避難者の自死事件では、こうした地域での「生活価値」を権利として認める判決も出されている。

 福島地裁は2014年8月、川俣町山木屋地区に居住していた女性(以下、Aさん)の自死事件で判決を言い渡した。判決は「Aは、本件事故発生までの約58年にわたり、山木屋で生活をするという法的保護に値する利益を一年一年積み重ねてきた」としたうえで、避難生活による心身のストレスに加え、「このような避難生活の最期に、Aが山木屋の自宅に帰宅した際に感じた喜びと、その後に感じたであろう展望の見えない避難生活へ戻らなければならない絶望、そして58年余の間生まれ育った地で自ら死を選択することとした精神的苦痛は、容易に想像し難く、極めて大きなものであったことが推認できる」と述べている。

 地域における平穏な日常生活を「法的保護に値する利益」と認め、それを奪われれば自死を招くほどの深い喪失感を与えるとしたこの判断は、「ふるさとの喪失」の賠償において、極めて大きな意義をもつ。

 その一方で、自死事件以外では、なかなかこのようなはっきりした判決が下されることはなかった。今回の仙台高裁判決は、その点で大きく前進したといえる。

 原告たちは、「ふるさとの喪失」が単なる精神的苦痛をもたらすだけでなく、自然の恵みや住民同士の結びつきなど、日々の暮らしにとって不可欠な条件を奪われたのであり、いわば実体的な被害があるのだ、と訴えてきた。仙台高裁判決は、こうした原告の主張を正面から受け止めたといってよい。また、すでに避難元に戻った原告もいるが、避難指示が解除されても「ふるさとの喪失」は継続していること(前述の「ふるさとの変質、変容」)も認めている。

 これに対して、東京高裁の判決は、「ふるさとの喪失」がいかに重大な被害かを理解していないといわざるをえない。判決は、地域での生活利益を、買い物や医療、雇用などに非常に狭く限定してしまい、住民同士の結びつきや伝統、文化などは考慮していない。

 だが、地域のコミュニティーは、農業用水の管理などの共同作業や、地域づくりの基盤であり、そこで育つ人びとの人格発達にとっても大きな意味をもっていた。伝統や文化もコミュニティーのなかで継承され、また人びとを相互に結びつける精神的価値をもっていた。これら一切の条件があって、地域での暮らしが成り立ってきたのである。判決はこの事実を見落としている。

賠償指針への追随

 また、慰謝料の算定にあたって、国の原子力損害賠償紛争審査会(以下、原賠審)が策定した指針に追随していることも問題だ。本来、司法はこれとは独立に、自らの判断で損害を認定すべきである。今後、審理の場は最高裁へ移るが、行政に追随しない司法判断が望まれる。

 国の指針に追随する姿勢は、東京高裁判決においてより強くあらわれているが、仙台高裁の判決にも、程度の差はあれ同様の問題が見られる。そのため、一審と比べれば明暗が分かれたとはいえ、両判決とも、認容額は原告の請求から見れば低く、指針の定めた額を大きく超えない水準にとどまった。

 原賠審の指針、および東電の自主賠償基準の性格をどう見るかは、集団訴訟における主要な論点の1つとなっている。原賠審は、「原子力損害の賠償に関する法律」に基づいて文部科学省に置かれる審議会であり、賠償すべき損害の範囲に関する指針を出す。東電はこれを受けて自主的基準を作成し、被害者に賠償を支払ってきた。

 そもそも原賠審の指針は、加害者と被害者の間の自主的な解決を促すガイドラインであり、賠償されるべき「最小限の損害」を示すものにすぎない。しかし東電は、指針を賠償の「上限」であるかのように扱ってきた。

 民法学者の潮見佳男が指摘するように、原賠審の指針は決して「裁判規範」ではない(吉村良一ほか編『原発事故被害回復の法と政策』日本評論社、2018年、47頁)。ところが前述のように、これまでの集団訴訟の判決では、指針に追随するかのような損害認定が見られる。

 原賠審は「中立の行政機関」だとされるが、国は集団訴訟の被告にもなっていることから、その「中立性」には以前から疑問が示されてきた。また、原賠審の議論は、賠償を早期に終了して帰還を促すといった、政府の復興方針に強く影響されており、閣議決定に沿って指針がつくられたこともある。こうした政策的考慮が働いているのであれば、賠償指針や基準は、裁判での「規範」とはなりえない。にもかかわらず、司法がそれらに追随するのは問題である。

国の責任をめぐる  司法判断

 今回の2つの裁判では、国は被告とされていない。したがって、国の責任をめぐって高裁レベルの判断がどうなるかが、集団訴訟の動向を見るうえで注目点の1つである。争われているのは、津波を予見できたか、対策をとり事故を回避できたかという点だ。

 2012年12月以降、全国20の地裁・支部で、約30の集団訴訟が提起され、原告数は1万2000人を超えた。2017年3月以降、約2年間で15件の地裁判決が出されている(表2。本誌1月号への寄稿以降、新たに3つの判決が加わった)。

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 国が被告とされていない裁判を除くと、11の判決のうち7件で国の責任が認められている。津波は予見できたし、事故は防ぐことができたという判断が下されたのである。また、国の責任を認めていない判決でも、津波の予見可能性があったことは指摘されている。2002年には、政府の地震調査研究推進本部が長期評価を公表していたのだから、これは当然だが、高裁レベルの判断がどうなるか、注目されるところだ。

政策転換と指針見直しに向けて

 今回の2判決を含め、一連の司法判断における積極的な面を、政策転換につなげていく必要がある。特に賠償という点では、原賠審による指針の見直しが重要な課題となっている。

 今回の高裁2判決は、(認容額の水準はさておき)いずれも指針に対する賠償の上積みを求めている。つまり、指針が賠償すべき損害をカバーできていないということだ。原賠審の指針は、前述のように「最小限の損害」を示すガイドラインだが、そこでカバーされていない損害について賠償を命じる司法判断が定着すれば、当然、それにあわせて指針も改定されるべきだ。

 日本弁護士連合会は、この点に関して、原賠審に対し次のように求めている。「複数の裁判所で中間指針等を上回る判断が何らかの形でなされていることに鑑みれば、少なくともその判決内容を検討し、『被害者の早期救済』を目的として策定されている中間指針等に反映すべきかどうかを検討することが、最低限必要である」(日本弁護士連合会「東京電力ホールディングス株式会社福島第一、第二原子力発電所事故による原子力損害の判定等に関する中間指針等の改定等を求める意見書」2019年7月19日、6頁)。

 発災から9年以上が経ち、「復興」が強調される中で、被害の実態が見えにくくなっている。2020年度は、東日本大震災「復興期間」の最終年度であり、必要な復興施策が継続されるのかが問われる。政府は被災者支援策の打ち切りを進めているが、原子力災害の実情を踏まえれば、長期的視点に立った復興政策が不可欠である。

 政府はこれまで「避難終了政策」「帰還政策」を進めてきた。財政面では、ハードの公共事業に重点が置かれる一方、被災者支援に充当されている割合が低い。特に福島では、除染という土木事業が大規模に実施されてきた(前掲『原発事故被害回復の法と政策』264~277頁)。

 しかし、地域の原状回復は難しい。また、避難者の選択は「帰還」「移住」にとどまるものではなく、避難先で暮らしながら避難元に通って農地の手入れをするなど、多くの道筋があり得る。実情に応じた多様な選択肢が保障されるべきである。

 被害の実態を十分に把握するとともに、一人ひとりの生活再建と復興が可能になるよう、きめ細かな支援策を講じていく必要がある。集団訴訟の原告たちが訴えているのも、これらの事柄なのである。


除本理史 よけもと・まさふみ。大阪市立大学教授。環境政策論・環境経済学。著書に『公害から福島を考える』(岩波書店)、『きみのまちに未来はあるか?』(岩波ジュニア新書、共著)など。



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