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「生きづらい」という言葉の裏に隠された、本当の気持ちとは?
こんにちは。
生きづらさ専門カウンセラーのkotoです!
このnoteでは、私たちが感じている漠然とした「生きづらさ」とは一体何なのかについて、真正面から考えていきます。
理由を知ることが全てではないけれど、理由を知らないことにはどうすることもできない。
自分自身が抱える正体不明の「生きづらさ」という感覚に光を当て言葉にすることで、「生きづらさ」から解放される道のりについて考察していきます。
どうか、生きることに迷うあなたにとって、自分自身を知る手がかりになりますように。
世の中には、2種類の人間がいる
世の中には、2種類の人間がいます。
それは「生きづらさ」という感覚をもっている人と、もっていない人。
その違いは、「自分が生きている」ということに疑問を感じているのかどうかということです。
誰だって悩みはあって、落ち込むことも、しんどくなることも当然ある。
でも友達に愚痴を言ったり、ストレス発散させたりして、また前を向いて進んでいく。
「生きづらさ」という感覚をもっていない人は、課題にぶつかることがあっても、「超えるためにはどうすればいいか」と思考できる人たちです。
課題に対して悩んだり苦しんだりすることはあっても、自分が存在している事実そのものに対して感じる不安や疑問とは全く別のもの。
そもそも、自分に生きる価値があるのかないのかなんて疑問は感じる必要がないのです。
普段から、自分が空気を吸って生きていると意識しながら生活している人は、あまりいません。
なぜなら空気というものは、そこにあるのが当たり前すぎるから。
それと同じように、自分という存在の価値なんてものは、自分がどう行動していようと、どんな状態であろうと、当たり前にあるものと、確信できているのです。
確信しているという意識さえないかもしれない。それほど、自分が生きているということは、彼らにとって、とてもとても「普通」のことなのです。
それに対して「生きづらさ」を感じる人は、常に「自分がこの世に存在していてもいいのか」という確信をもつことができないでいます。
自分が生きていてもいいという確信がないから、どこで何をしていても、その疑問から離れられません。
「生きづらさ」を感じている人は、課題を乗り越えるうんぬんのもっと前に、「自分が生きていてもいい」と感じることで精一杯な状態なのです。
息を吸うのもいっぱいいっぱい。
そんな状態。
世間一般に「当たり前」と言われているような、「自分は生きていていることが当然」という感覚を持ち合わせていないことによって、漠然とした「生きづらさ」を常に感じ続けなければならなくなっているのです。
もちろん、私は「生きづらさ」を持ち合わせている方の人。
「生きづらい」の奥に隠されているもの
「なんとなく生きづらい」という言葉の奥には、
「自分が生きていていいと思えない」
そんな、とてつもない悲しみが隠れています。
しかし本音を表すその言葉は、社会にとって、できれば「見たくない」大きな負の感情。
そんなものを大っぴらにして歩いていたら、あっという間に社会からのけ者にされてしまうような気がするから、たとえ自分の心が悲しみでいっぱいでも、
それに気付かないふりをしたり、自分の悲しみは大したことがないように思い込もうとしたり、そもそも忘れてしまったりして、私たちは生きています。
なるべく本心をさらけ出さないように、でもなんとか自分をこっそり表現したくて、グレー中のグレーである「生きづらい」という言葉を使っている。
その言葉の奥には、間違いなく何かに傷ついている自分自身がいるというのに、誰もが巧妙にそれを隠しているのです。
その言葉を聞く人も、「自分が生きていていいのか分からない」という重たい問いを投げかけられても困惑するので、その本心にはふれないようにして、さらりと受け流す。
「生きづらい」という本人だって、自分の本当の悩みが相手にとって重荷であると分かっているから、受け取ってもらえなかったとしても、自分が傷付かずに済む言い訳として「生きづらい」という曖昧な言い方にとどめている。
そうこうしているうちに、はて「生きづらい」とはなんなのか。その言葉さえ聞き流されていく。
「生きづらさ」を感じている人も、感じない人も、社会全体が共謀して、「私は生きていてもいいのだろうか」という悲しすぎる問いを、見て見ぬふりをして日々を流していく。
でも、誰もが目を背けたところで、その問い自体がなくなるわけではありません。
そんな社会では、時として「生きづらい」という言葉でさえ、「重たい人」の証明になってしまいます。
だからもう、何も言わない。
大丈夫なふりをして、何もないんだと言い聞かせ、自分自身に嘘を重ねて生きていく。
その嘘は、いつの間にか自分の心を分厚く覆う壁となり、自分自身の本音を本人にすら見えなくしていってしまいます。
そうしたひずみの先に待っているのが、自分でも何をどうしていいか分からないほどの不安や、人に対する恐怖なのではないでしょうか。
もしもあなたが「生きづらい」と感じているなら
「生きづらい」と感じるのがなぜなのか、真剣に考えてみる価値はあるかもしれません。
「生きづらい」という言葉の奥に、傷ついて苦しんでいる自分はいませんか?
本当は、「生きづらい」なんて曖昧な言葉で隠さなくてもいい。
本当は、自分が大きな悲しみを抱いていることを認めたっていい。
認めることには、大きな恐怖が伴うかもしれないけれど、大丈夫。
あなたのその悲しみを、理解できる人はきっといます。
まずは知ること。
傷ついている自分を無視しないこと。
それが、あなたの「生きづらさ」を解消するための第一歩になっていくはずです。
もしも、あなたの「生きづらさ」の裏側にある悲しみに気付いたら、どうぞスキやコメントでお知らせくださいね。
言葉にすること、自分の意思を表明することは、心の奥の悲しみを解放するための大きな一歩となるはずです。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
興味をもっていただけた方は、ぜひスキ・コメント・フォローなどをいただけますと嬉しいです。
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ぜひまた読みにきてくださいね。
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