(浅井茂利著作集)物価をめぐる論点
株式会社労働開発研究会『労働と経済』
NO.1613(2017年4月25日)掲載
金属労協政策企画局長 浅井茂利
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2017年闘争では、物価が大きな争点とはならなかったように見受けられます。経営側は、賃上げを行う必要のない理由のひとつとして、物価上昇がないことをあげてはいましたが、それを強硬に主張するという状況ではなかったようです。
また、日銀は経営者に対し、消費者物価上昇率2%を前提とした賃金決定を訴え、経団連も経営労働政策特別委員会報告において、「予想物価上昇率を議論の対象とすることも考えられる」との見解を示していましたが、実際の労使交渉において、議論されたという情報は得ておりません。
とはいえ、消費者物価上昇率はすでにプラスに転じており、実質賃金がマイナスとなることも懸念されます。今後、賃金決定要素のひとつとして、物価の重みが増してくるということになるのではないでしょうか。
物価の上昇基調が定着するかどうかは金融政策次第である
消費者物価上昇率(総合)は、2017年1月に前年比でプラス0.4%、「生鮮食品を除く総合」も0.1%で、13カ月ぶりのプラスとなりました。
こうしたプラス傾向が定着するかどうかは、率直なところ、予測困難です。要は金融政策次第なので、物価そのものを予測するというよりも、金融政策の先行きを予測することによって、物価を予測する以外にありません。
振り返ってみますと、2013年1月に政府と日銀が共同声明を発表し、「物価安定の目標を消費者物価の前年比上昇率で2%とする」ことにし、同年4月、2%の「物価安定の目標」を、2年程度を念頭に置いて、できるだけ早期に実現するため、金融市場調節の操作目標を無担保コールレートからマネタリーベースに変更するとともに、長期国債などの買い入れを大幅に拡大する「量的・質的金融緩和」を採用することになりました。
これによって、2013年3月に前年比マイナス0.9%だった消費者物価上昇率(総合)は、同年12月には早くもプラス1.6%に到達、2014年に入ってからも、夏場ま では、消費税率引き上げ分を除いて1.5%前後で推移しました。量的金融緩和は効かない、というのがマスコミ論調の主流のように思われますが、実際には効かないどころか、即効性があったと言ってもよいくらいだと思います。
図表は、横軸に量的金融緩和の度合いを示すマネタリーベースの増加率、縦軸に消費者物価上昇率(総合)をとったものですが、相関関係は明白と言えるのではないでしょうか。
ただし、マネタリーベースの増加率を引き続き拡大していくためには、国債の買い入れを加速度的に増やしていかなくてはならないので、少ない買い入れでも効果が発揮できるよう、量的金融緩和の「効き」をよくしようとしたのが、2016年1月の「マイナス金利付き量的・質的金融緩和」であろうと思います。
日銀が金融機関から国債を買い入れた場合、代金は、金融機関が日銀に保有する当座預金(日銀当預)に払い込まれるわけですが、日銀当預に預けたままにしないで、貸し出しや投資を通じて、市中に資金を回しなさい、日銀当預に預けたままなら罰金を取ります、というのが、マイナス金利の趣旨であろうと理解しています。
消費者物価にもいろいろあるが
ひと口に消費者物価と言っても、さまざまな機関で異なる指標が使われているので、非常にわかりにくい状況となっていることは否定できません。
総合
*世帯が購入する多種多様な商品およびサービス全体の物価変動を代表するもので、585品目の小売価格を用いて算出する。
*政府が使用する代表的指標である。
*政府経済見通しの消費者物価上昇率も、これを使用している。
*2016年9月までは、日銀の消費者物価上昇率目標2%の対象指標だった。
生鮮食品を除く総合
*物価変動の一時的要因の影響を取り除いた、基調的なインフレ率(コア指標)のひとつ。「総合」指標から、天候不順など一時的要因による変動の大きい生鮮食品を除いたもの。
*マスコミは、この指標の数値を報道する場合が多い。
*日銀および民間調査機関の経済予測では、この指標が使用されている。
*2016年9月より、日銀の物価目標2%の対象指標とされている。
生鮮食品及びエネルギーを除く総合
*同じくコア指標のひとつ。生鮮食品に加え、エネルギー価格の変動が「海外要因」ということで除外されている。
持家の帰属家賃を除く総合
*「総合」では、持家に関して、家賃を支払っているものとして、指数に組み入れている(帰属家賃方式)ので、これを除いたもの。
*厚生労働省「毎月勤労統計」で実質賃金を算出する際に使用する物価指標。
*家賃は消費税が非課税なので、消費税率が引き上げられた場合、「総合」と「持家の帰属家賃を除く総合」との乖離が大きくなる。消費税率を3%引き上げて、消費者物価上昇率(総合)での影響が2%という計算になるのは、家賃が(従って、持家の帰属家賃も)消費税非課税であることの影響が大きい。
政府と日銀、マスコミ、民間調査機関とが別の指標を使用しているのは混乱を招きやすいですし、エネルギー価格が、「海外要因」ということでコア指標から除外されることについては、グローバル経済の下、グローバルサプライチェーンが拡大しており、そもそも国内要因・海外要因の区別はつけられず、また区別する意味もないのではないかと思います。
物価は個別価格の動向とは異なる
筆者としては、消費者物価上昇率はあくまで「総合」が基本であって、短期的な物価の変動について、一時的な変動要因を排除して見ることが必要な場合には、「生鮮食品を除く総合」を併用する、ということだろうと思います。
長期的に見ると、「総合」も「生鮮食品を除く総合」も、「生鮮食品及びエネルギーを除く総合」も、実はあまり変わりません。たとえば、1985年度に対する2015年度の消費者物価上昇率を見てみると、「総合」が16.7%、「生鮮食品を除く総合」が16.4%、「生鮮食品及びエネルギーを除く総合」が17.3%となっており、その差はさほど大きくありません。
「何々が値上がりしたので、物価が上昇した」などという話題は、日常会話ではよくあることですが、長期的に見ると、正確な見方とは言えません。なぜなら、たとえば電気料金が上昇すると、家計は、その分、他の消費を節約しようとするはずです。その場合、電力以外の商品・サービスに対する需要が減って、価格の下押し圧力が働くので、トータルとしては、電気料金の値上がりが、他の商品・サービスの値下がり、ないし値上がりの抑制によって吸収されてしまう、ということになります。
ただし、これはあくまで長期的な調整過程を経てこうなるということであって、短期的に、すぐ調整されるわけではありませんので、「前月比上昇率」のような短期的な変動を見る場合には、「生鮮食品を除く総合」が意味を持つことになります。逆に「年度平均上昇率」のような、やや長めのスパンで見る場合には、「総合」で差支えないだろうと思います。
物価上昇率2%を前提とした賃上げ
昨年の11月、日銀の黒田総裁は、「名古屋での経済界代表者との懇談における挨拶」の中で、「日本経済が大きな変化を遂げていく過程において、2%という物価全体の『ものさし』を前提とした賃金の決定などの人材投資に積極的に取り組むことは、日本経済全体にとって不可欠な条件」であり、「各社の中長期的な経営を考える上でも必要なことである」と指摘しました。消費者物価上昇率はまだ2%に達していないけれど、2%を前提とした賃上げを行うことが、量的金融緩和の「効き」をよくして、2%の物価上昇率を達成するために有効、という趣旨だろうと思います。
経団連も「2017年版経営労働政策特別委員会報告」では、「あくまで実績値をベースとした上で、労使間の話し合いの中で、付加的要素として予想物価上昇率を議論の対象とすることも考えられる」として、意外な反応を見せました。ただこれは、日銀に対するリップサービスの域を超えないのだろうと思います。
歴史的には、金属労協では、「過年度物価上昇率、過年度中物価上昇率(年度末の前年同月比上昇率)、当年度物価上昇率を総合的に判断」することを基本としつつ、過年度上昇率を中心として、物価の判断を行ってきました。過年度物価上昇率であれば、交渉時点で数値がほぼ固まっていますから、労使双方にとって交渉がしやすいというメリットがあります。とはいえ、過年度後半に急激に上昇した場合や、当年度に急激な上昇が予想される場合には、過年度上昇率だけでは対応できないことから、このような考え方を基本としてきたわけです。
物価2%時代には、2%時代に相応しい賃金決定のあり方があるのだろうと思いますが、やはり2%が達成されないと、労使の行動を変えるのは難しいのではないでしょうか。
シムズ理論について
「金利がゼロ近傍になると、量的緩和だけでは、物価に影響を与えることはできない」として、「政府が将来増税しないと約束し、財政支出を増やしていけば、人々が財政赤字拡大から、将来、インフレが起こると予測し、消費や投資を拡大する。それが物価上昇の圧力となり、インフレが発生して、デフレや低インフレ状態から脱し得る」という、「物価水準の財政理論」(シムズ理論)が注目されています。
増税なしの財政支出拡大がインフレを招くということは、一般的に理解されていることですが、
*先述のように、金利がゼロ近傍であっても、量的金融緩和は効果を発揮している。
*財政支出を拡大させたとしても、企業収益、企業貯蓄を拡大させるだけで、最終消費に結びつかず、物価の上昇効果は限定的なのではないか。将来の財政不安から、金利の高騰を招くだけにならないか。
*もし物価の上昇効果があるとすれば、量的金融緩和と相まって、ハイパーインフレを招くことにならないか。
*ハイパーインフレを防ぐため、急激な金融引き締め、財政支出削減が必要となり、経済の乱高下を招き、やがて制御不能に陥ってしまうのではないか。
といった点が懸念されます。物価2%達成のためには、やはり量的金融緩和を進めつつ、金融機関に貸し出しや投資を促し、継続的に賃上げを行っていく以外に方策はないのだろうと思います。