【先生のコラム】子どもの表現について考えよう
sful成城だよりでは毎号、教員たちの研究・教育に関するコラムを掲載しています。今回はsful成城だよりVol.16(2021年12月10日発行)から成城学園初等学校の美術科・粟津謙吾教諭のコラムを転載しています。
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「なんでこんなへんな色にしたの?」「この色入れたほうがよくない?」
学校に限らず、ふとした場面で見聞きすることがある。子どもたちの横で良かれと思いつい言ってしまった何気ない言葉。大人の放つ言葉は子どもたちの心の澱となって深く沈んでいく。
造形・美術教育では、子どもたちが一体どのような力を身に付けることができるのだろう。上手に絵を描くこと、器用に作品をつくること、確かにそれは素敵なことである。しかし、造形・美術教育ではもう一歩、人間の生き方につながる教育ができるのではないだろうか。
先ほどの場面に戻ってみよう。私は子どもから求める前に大人が声掛けをしていることが、子どもの可能性を奪っているように感じる。「こうしてみたい」という子どもの欲求を、大人が「勝手に」価値付けてはいないだろうか。言語が拙い学齢ほど、表現することをコミュニケーション代わりにしていることもある。コミュニケーションと捉えた時には、自分の存在ごと否定された気持ちになるのではないか。
自身の声掛けを振り返ってみると、うまくいかなかった時ほど自分の中に「こうしてほしい」という想いを持って、声掛けをしてきたことに気がつく。私の持つ答えから外れた子どもたちをうまく誘導していたのだ。導かれてできた作品は立派な見た目になることも多いが、子どもたちの心には残らない。並んだ作品の中から自分の作品を見つけることすらできないこともある。子どもが生み出そうとしている「なにか」を、大人のモノサシで測りなおしてはならないのだ。
幼少期に夢中になってつくったものでも、大人になると「あの時なにつくったんだっけ…?」と忘れてしまうことも多い。しかし、製作中はさまざまな問題にぶつかり、それらを創造的に解決していく体験を繰り返している。時には自ら新たな問題をつくり出し、解決し、表現する。つくった作品を忘れてしまっていても、創造活動を通して子どもが向き合う経験の全てが糧となり、「人生を自分でつくる」ための小さな1ページになるのではないか。 大人が子どもの目線で「さくひん」に向き合うことで、子どもは表現するという行為そのものに浸ることができる。作品だけでなく、「子どもの行為そのもの」を大人が一人の人間として対等に受け入れ、向き合うことで子どもは自分の考えを持つことに価値を感じることができるようになってくる。その力こそが、答えの見えない未来を生き抜く子どもたちにとって、自分のモノサシを持って生きる力へと繋げていくことができるのではないだろうか。
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