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入門書とはどのような書か: 小倉紀蔵(2017)『朝鮮思想全史』筑摩書房。

※見出し画像はKindle版のスクショである。

「鍵」の欠如した入門書

入門書とはどのような書のことをいうのだろうか。適当にスーパー大辞林3.0あたりを引いてみると、「これからある分野や対象を学ぼうとする人に、その大枠や最低限の基礎知識をわかりやすく解説する」書物であれば入門書ということになるだろう。実際「○○入門」と題された書籍にはそのようなものが多い。本屋に行くと各ジャンル毎に必ずといっていいほど置いてある「○○入門」という本もそんなところである。かっちりとした法学入門から、統計分析入門、株の入門、プログラミング入門・・・最近はYoutube入門やらZoom入門といったものもあるようだ。俺自身も、そういう入門書を何度も手にした覚えがある。けれども、どういうわけか、それら入門書を買って「良かった」と思ったことはこれまで一度もない。読んでも今ひとつなんのことやらわからず、結局専門書を開いている自分がある。入門書を読んでも、今ひとつ門をくぐったような感覚がない。代わりにあるのは、門の奥にある何かから遮断されているような感覚、一人ポツンと門を眺めているような感覚である。「大枠や最低限の基礎知識をわかりやすく解説する」だけでは、足りないものがあるのだ。「大枠や最低限の基礎知識をわかりやすく解説」されたところで、門を開くことはできない。ただ学ぶのではなく、これから研究をしようとする者――「研鑽し、究める」という営みに参与しようとする者――には、門を開くための「鍵」となるものが必要である。「鍵」のない入門書は、実は「入門」書ではなく、「門を見せる」書でしかない。学問の成果を世に送ることと、誰かを学問に誘うことは同じではないのだから、「門を見せる」だけでは足りないのだ。

著者の意図とその失敗

 本書『朝鮮思想全史』は、この意味で真の「入門」書である。ただ、(おそらく)著者自身はそれを意図してはいなかった。本書の「はじめに」には次のようにあるからだ。

朝鮮思想に対してあらかじめなんの知識もない人が、あるていどの客観的知識を身につけることができる平易な入門書が、どうしても必要なのである。本書はそのような意図のもと、できるだけ著者の自説を展開せず、客観的な記述を旨とした。コンパクトな器のなかに、朝鮮思想の全体図を俯瞰して見渡すことができる内容を盛ったということができる。         (小倉 2017: 位置No.140-146)

「客観的知識」「平易」「全体図」・・・。著者は明らかに、「門を見せる」ことを意図している。もちろん、それにも大きな意義がある。古朝鮮から現代北朝鮮・韓国に至るまでの思想を総覧し、神話・仏教・道教・シャーマニズム・風水・陽明学・東学・開化思想・啓蒙思想・攘夷思想・キリスト教、果ては詩歌や文学、新興宗教といったものまでを網羅的に、それも朝鮮の歴史・政治・地理などと関連づけながら網羅的に論じるような書物(それも新書で!)が他にないのは確かであろう。

 しかし、ある意図を持つことと、その意図通りになることは別の話である。本書は「門を見せる」書物としては、残念ながら落第なのだ。「客観的知識」「平易」「全体図」という意図を持つにもかかわらず、実際には筆者独自の説が詳細な説明無く度々登場し、初学者には難しい専門用語が当然のように用いられ、また個別の要素の連関が見えづらく全体を捉えるのが難しい、という難点を数多く抱えている。例えば元暁の思想について「19世紀はじめにヘーゲルが考えたことが、すでにここでは熟考されている」(小倉 2017: 位置No.1036)とするのはかなり乱暴であろう。また、性理学における「理」についての筆者の考えが〈理α〉〈理β〉〈理X〉〈主体X〉といった抽象概念を用いて説明する箇所があるのだが(小倉 2017: 位置No.1894-1923)、抽象概念を用いた説明を新書版1~2ページで済ませてしまうのはかなり無理がある上、そもそもその考えを本書で開陳する必要があるのかも疑わしい。さらに、この箇所でも登場する「霊性」という言葉は鈴木大拙の「日本的霊性」に範をとっており、本書全体にも度々登場するのだが、その言葉自体の意味するところは見えにくい。第一章「朝鮮思想史総論」ではかなりの紙幅を割いて「霊性」が語られはする。けれども、説明するのであればまず鈴木の「日本的霊性」を解説し、それを朝鮮思想史に応用するという手順を踏んでしかるべきはずが、ここでは朝鮮思想史への応用の話が前面に出ており、元々の「霊性」についての説明があまりにも弱い。おまけに第一章の最後に「本書ではできるだけ客観的な記述を心がけたので、「朝鮮的霊性」に特別に焦点を合わせるわけではないが、そのことを念頭に置きながら、思想史を叙述していきたい」(小倉 2017: 位置No.301-303)とあり、実際に各章での「霊性」に関する記述は断片的なものとなっているのだが、それがわかりにくさに拍車をかけている。客観的知識を平易に解説したいのであれば、「霊性」についての記述は不要である。「霊性」を出すのであれば、「霊性」を基軸として朝鮮思想史の大系化を試みるほうがよほど「全体図」としての威力を持つはずである。けれども、本書はそのどちらでもない。客観的知識の平易な解説の中に、非客観的な記述が断片的に侵入する。しかも困ったことに、客観的知識同士を連関させ、統合しうる継ぎ手はその非客観的記述なのだ。「これからある分野や対象を学ぼうとする人に、その大枠や最低限の基礎知識をわかりやすく解説する」書物として読むと、中途半端・不完全という印象を抱かざるをえない。残念なことに、著者の野心的試みは失敗であったというほかない。

「鍵」=「なぜ」の余地

 「門を見せる」ことを意図した著者の試みは失敗であった。けれども、(ここからが本題なのだが・・・)俺はあえて、本書こそが優れた「入門」書の代表例であると言おう。著者の意図に反して、いや反しているからこそ、本書は「入門」書として必要な要素、すなわち「鍵」を提供することができるのだ。「鍵」とは、これから研究をしようとする者が門を開くために必要なものであり、「大枠や最低限の基礎知識」とは異なるものであることは、既に述べた。では、なんだろうか・・・。答えは「研究者としてのものの見方」あるいは「『なぜ』の余地」である。
 
 かつてE.H.カーは、その代表作『歴史とは何か』において「歴史の研究は原因の研究」と述べた(カー 1962: 127)。過去の出来事が「なぜ」起こったかを探究すること。即ち様々な原因を挙げ、それらを秩序づけ関係を整理する営みこそが、歴史研究である、ということだ。「なぜ」の探究!それは歴史研究にのみ当てはまるものではない。およそ研究と名付けられるもの全てにおいて「なぜ」の探究は基本である。研究者は常に「なぜ」を発見し続け、「なぜ」に突き動かされて資料を漁り、考え、ときには実験し、書くのだ。直接的に「なぜ」を問うわけではない応用研究(何かを開発したり、実践するような研究)においても「なぜ」は重要である。例えばあなたが高熱を出して医者にかかったとしよう。大体の医者は、高熱の原因を何らかのウイルスへの感染と考え、そのウイルスに効く薬を処方するだろう。西洋医学であればまあそうなる。一方、もしその医者がたまたま東洋医学を修めた医者であれば、それはウイルスの問題というよりも、人間の「気」の乱れの問題と考え、「気」を正常に戻すのを助けるような薬を処方することになるだろう。この両者の違いを生み出すのが「なぜ」である。私は「なぜ」高熱を出しているのかへの答えが、ウイルスへの感染か、気の乱れかと異なることによって、その治療実践にも違いが出てくる。新たな治療法を開発する際にも、どちらの理論を前提にするかで出来上がるものは異なってくるだろう。もちろん、患者にとっては治ればどちらでも構わないし、「なぜかはわからないが上手くいった」という事例も世の中にはたくさんある。つまり「なぜ」を考えることなしに応用を行うことも普通にありうる。ただ、それらは応用「研究」ではなく、門の外側の出来事である。

 「なぜ」を探究するには、まず「なぜ」を抱かなくてはならない。俺が本書を評価するのは、その点においてである。本書にはかなり問題点が多い、わかりにくい。しかし、それ故に読者には「なぜ」が生まれる。説明不足であることはより深く説明されるべき余地があるということ、難解であることは読み込む余地があるということ、真実性を疑わせる記述があることは問い直しの余地があることを意味する。これらが「『なぜ』の余地」であり、ここに「なぜ」を見出すのが「研究者としてのものの見方」である。世の多くの入門書には、これが足りていない。「これからある分野や対象を学ぼうとする人に、その大枠や最低限の基礎知識をわかりやすく解説する」ことに成功すればするほど、「なぜ」の余地は失われる。研究者であればそういったものにすら「なぜ」を見出すことができようが、初学者はそれができないから初学者なのだ。であれば、そういった初学者すら「なぜ」を発見せざるを得ないような書こそ「入門」書にふさわしい。
 
 俺は「大枠や最低限の基礎知識」が不要であると言おうとしているのではない。それらも必要であるが、説明し尽くしてはならないと言っているのだ。本書の場合、著者自身はこれらを書こうと試みており、中途半端ではあるものの、書けてはいる。それもありとあらゆるものを、網羅的に。ただ、それが中途半端であることが美点なのだ。しかもそれはわざとではない。もしも著者自身が思ってもいないような嘘を交えて書いているのであれば、それは唾棄されて然るべきである。しかし幸運にも、本書はそうではない。むしろ、一方では客観的な記述を心がけつつ、他方で自説の正しさを根本的なところで強く確信し、書かなければならないと思ったからこそ、中途半端となったと見る方が適切であろう。悪意ある嘘は害をもたらすが、誠実な過ちは可能性をもたらす。著者が「入門」書を意図してはいなかったが、そもそも意図して書けるものではないと言った方が良いかもしれない。門を開けるための「鍵」は単に作り出されるのではなく、作り出されてしまうものなのだ。

 また、これはついでだが、本書にはしばしば、「なぜ」について明示的に語る記述もある。例えば、19世紀朝鮮「暗黒の時代」についての研究の未進展状況(小倉 2017: 位置No.3138-3148)などがそうである。「なぜ」は自ら見出すものであって、他者に与えられることはあまり良くないが、非難するほどのものでもないだろう。「大枠や最低限の基礎知識」としてありがたく読めばよいし、これに対してさらに「なぜ」を問うこともできる。そう、ただ学ぶだけでは研究ではない。問い直すことこそが研究なのだ。


補足1: 
 本書の著者である小倉紀蔵は現在京都大学の人間・環境学研究科教授。元々電通でコピーライターを数年やった後に仕事を辞め、韓国はソウルに留学して東洋哲学史を修めたという異色の経歴の持ち主だそうだ(日本語版Wikipedia 「小倉紀蔵」 2019.9.14.15:04‎)。彼は思想史の他に政治・時事問題やら韓国語・ハングル語学でもいろいろと書いているため、専門分野が何か、というのは難しい。(朝鮮)思想史が専門で他はその材料としてもいいだろうし、Wikipediaに挙げられている「韓国学」が専門(日本語版Wikipedia 「小倉紀蔵」 2019.9.14.15:04‎)としても良さそうだ。


補足2:
 この本は筑摩書房の創業80周年記念とかなんとかで、電子書籍が大安売りしていたので16冊ほどまとめ買いしたうちの一冊である。電子書籍はどうも扱いにくいしコレクション欲を満たせそうに無いので敬遠していたが、安かったのでついつい買ってしまった。電子書籍を読む丁度良いデバイスを持っていなかったため、あえなく「積ん読」となるところだったのだが、つい先日スマホが故障し、買い換えたのが6.6インチ近くのでっかいやつで丁度良かったので消化し始めた次第。
 


参考文献
小倉紀蔵(2017)『朝鮮思想全史』筑摩書房、Kindle版。
カー、エドワード(1962)(清水幾太郎訳)『歴史とは何か』岩波書店。
筑摩書房HP「朝鮮思想全史」https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480071040/(2020年10月23日最終閲覧)
Wikipedia(日本語版)「小倉紀蔵」(2019.9.14.15:04版)https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%B0%8F%E5%80%89%E7%B4%80%E8%94%B5&oldid=74243281。

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