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荻原裕幸『リリカル・アンドロイド』

式場を出て気疲れの首かたむけて本音のやうな骨の音を聴く
嫌なだけだと認めずそれを間違ひと言ふ人がゐて春の区役所
春が軋んでどうしようもないゆふぐれを逃れて平和園の炒飯
棚や椅子や把手のねぢを締めながら白露わたしのゆるみに気づく
他意のないしぐさに他意がめざめゆく不安な冬の淵にてふたり
喪主と死者のやうにひとりが饒舌でひとりが沈黙して寒の雨
嫌だなあとやけに泡だつこゑが出て自らそれが嘘だと気づく
香車の駒のうらは杏としるされてこの夕暮をくりかへし鳴る
同じ本なのに二度目はテキストが花野のやうに淋しく晴れる

荻原裕幸さんの第六歌集である。ニューウェーブの挑戦的な文体のイメージを身構えて読むと、まったく違う印象に驚かされる。

まず季節の歌、とりわけ「春夏秋冬」を直接読みこんだ歌が非常に多いことに気がつく。二首目・三首目は「春」、五首目は「冬」だが、「白露」や「花野」は秋、「寒の雨」は冬の季語である。引用はしていないが「~月」という表現も多い。俳句にも造詣の深い作者が、日常生活を季節に規定させることで、読者にその空気を伝えているかのようだ。

主体の認識が主体の外から観察されているような歌も目立つ。自分の首から「本音のような」音を聞き、ネジを締める行為から「わたしのゆるみ」に気がつき、「やけに泡立つ」声が嘘だと気づいてしまう。そして、他者の「他意のないしぐさ」から主体自身の「他意」が目覚めゆくのだ。

相手との関係性に着目した歌がある。「妻」「きみ」「あなた」がそれぞれどういう関係なのかを読み解こうとすれば、なんらかの言外のメッセージを汲み取ることができるのかもしれないけれど、「間柄」「ふたり」「ひとりと~ひとり」といった多様な書かれ方を、それぞれの歌で味わうほうがよいのかもしれない。

引用した九首のうち七首が「二十七文字」である。二十八文字、二十九文字の歌がそれぞれ一首ずつある。歌集全体でも、二十七文字から二十九文字にほぼすべての歌が整えられているということを、この歌集の読書会で知った。

短歌は、概ね三十一音という制約がある。そのうえで文字数にもこだわりがあるのだとすれば、同じ意味の言葉をさまざまな表記で書いてあるということも納得がいく。二人称の多様な書き分けや、同じ言葉をどのように仮名に開くかにも、それぞれの一首に対する美意識が感じられる。

同じ本なのに二度目はテキストが花野のやうに淋しく晴れる

読書会のあと、まさしくこの歌のような状態になった。作者や作品について何かを知ることは、鑑賞を深めることと同時に先入観にもなりうる。俳句と言われれば季語の効果を類推できてしまうし、よく知っている具体的な名前があればその空気のような感覚を味わうことができる。

例えば「平和園」をはじめ、固有名詞の意味が分かるとその言葉がハイライトされる。その強さに認識がとらわれてしまうことは、ある意味では淋しいことなのかもしれない。結末のわかったミステリーを読みなおすような感覚にも似た何かがあるのだろうか。

初読と二度目の違いを、単純にわかったような気になってはいけないとも感じる。ある程度の時間をおいてから、再びこの歌集に向きあったときに感じたことをおぼえておこうと思う。


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