「私たちの心が実現できると知っているもっと美しい世界」 イニシエーション (第36章)
本の内容紹介、著者チャールズ・アイゼンシュタインについてと目次。
けれども、私たちは到達するのでしょうか?他の多くの問いと同じように、証拠と理性だけでは、信じることを正確に決めるためには不十分だとしたら、特にその答えが他のすべて、自己と世界に関する私たちの基本的な物語さえも巻き込むときに、私たちはその問いにどのように答えるのでしょうか?私は先に答えを提示しました。自分が立つ物語を選ぶというものです。
どのように選ぶのでしょうか?理性、論理、証拠がいかに簡単にストーリーのために徴用されるかを考えると、あなたは何を信じるのでしょうか?ここに代案があります。本当のあなた、そうありたいと願うあなた、実際にそうなりつつあるあなたを最も統合している物語を選ぶということです。
「私たちは到達できるのでしょうか?」という問いがもたらす無力感の霧の向こうに、私たちの選ぶ力、創造する力への扉があるのです。なぜならその扉にはもう一つの問い、「私は何者なのか?」という真の問いが書かれているからです。
絶望は、何が実現可能だと私たちが信じるかを生み出している、その絶望の下にある物語と同じくらいしか有効ではありません。その下にある物語とは、「自己の物語」なのです。では、あなたは誰なのでしょうか?他者たちから成る世界では、あなたは別個の、離れ離れの個人なのでしょうか?それともあなたは、特定の注目点に向かって収束している、すべての人間関係の総体なのでしょうか?証拠を見つけることで、この問いに答えられるという幻想に終わりをもたらしましょう。超能力現象や前世退行に関する本をもう一冊読むことでは、あなたの内なる懐疑論者を満足させられはしないのです。どれだけ証拠があっても足ることはないのです。証拠がなくとも、あなたは選ぶしかないのです。あなたは何者ですか?
神秘主義者たちは何千年もの間、私たちにふたつの答えを提示してきました。一つには、お金、人間関係、手足、言語など、あなたを世界とつなぐすべてを取り除いてもなお、「あなた」である何かが残っているということです。私はこれではない。あれでもない。すべてを差し引いた何かとは無なのです。ですから、最初の答えとは「あなたは無です」というものです。しかし、そこに到達すると、無は無なのではなく、すべてであることがわかります。すべての事象は虚空から生まれており、真空量子の一粒は10億個の太陽のエネルギーを持っているのです。
ですから、ふたつ目の答えは、あなたがすべてであるということです。ほんの小さな関係でさえも取り去ってしまえば、あなたが減じられます。一つの関係が加えられれば、あなたが増大します。この宇宙の中のどのような存在を変えても、あなたもまた変わってしまうのです。それゆえ、あなたはすべてなのです。つまりあなたは、それぞれの関係がすべてを含んでいる関係性の網の目なのです。
それがインタービーイングに基づく自己です。「状況」を取り除いてしまえば、あなたのアテンションは私のアテンションであり、すべての存在のアテンションなのです。私たちは同じ存在であり、異なる目を通して世界を眺めています。コメディアンのスワミ・ビヨンダナンダが言うように、「あなたはユニークな存在です、他のみんなと同じようにね!」ということです。
存在の本質についてこれ以上語るつもりはありません。私がそれを語れば語るほど、それが真実ではなくなっていきます。その上、”あなた”が何であるか、私にわかるはずがありません。というわけで、過去数世紀にわたり、私たちが生きてきたさまざまな扮装の分離した自己は、自己についてあり得るいくつもの物語のうちの一つなのです、とだけ言っておきましょう。
あなたは何者なのですか?どの物語、どの自分が本当の自分なのかという問い。それは客観的な問いではないのです。証拠を積み重ねても答えが出ないだけでなく、それに関する客観的な事実が存在しないのです。しかし、そこに真実があるのです。自分が何者であるかの真実は変化していくということが感じ取れるでしょうか?「分離」の自己であるあなたが、減少していっていることがわかるでしょうか?
与えることを恐れ、奉仕することを恐れ、非人間的な力の被害者であり、そこにある敵対的な世界に影響を与えるには無力な分離の自己は、自分がその自己ではないことの証拠を求めているのと同様の自己なのです。政治の世界でも、科学の世界でさえも、どちらの側も自分が正しいとは証明できないのと同じように、「インタービーイングの物語」が真実であるとあなたに証明することはできません。確かな証明を頼みとすることは、古い物語の一部であり、客観性と呼ばれる物語の一部でもあります。あなたは選択しなければならないのですし、その選択から証明に逃げ込むことはもはやできないのです。これはあなたが直面するあらゆる問題に当てはまることです。どの考え方が真実なのか?「私は何者なのか?」という問いに対してはなおさらです。
「もし私が、インタービーイングの自分となり、それが故に癒しが実現可能な世界の物語の中で生きることを選んだらどうなるだろうか?でも、自分が思い違いをしているだけだとしたら?」と裏切られた皮肉屋が言っているのがまだ聞こえますか?この問いかけが、「私たちは到達できるのでしょうか?」と同じエネルギーを持っていることにお気づきでしょうか?それは分離した自己の悲痛な叫びなのです。「もし自分が孤独だとしたら?私が与え、奉仕しても、この敵対的な世界では誰も、私に恩返しはしてくれず、私のことをケアしてくれないとしたら?」その結論はこうなるのです。「安全策を取ったほうがいい。自分の利益に気を配り、自分の安全を最大限確保した方がいい。」数十億もの人々が同じことを考え、それに基づいて行動しているのです。そうして、その物語へと集合的に没入しているのですから、その世界のイメージと確証を私たちは周りの世界の中につくりだしていることに気づけるでしょう。私たちはその証拠をつくりあげ、それを正当化するために物語の土台にそれを挿し入れるのです。
新しい物語の中で生きることを選べば、同様の自己確認的なポジティブ・フィードバック・ループを経験することになります。異なる法則を持つ、違う世界に移住することになるのです。私はいつも、「全財産を手放しました、それから私の人生が魔法がかったようで信じられません」というような手紙を受け取ります。ニューエイジの指南役たちは、そのようなストーリーを知っていたり、欠乏感の刷り込みからの解放の結果を自ら体験したりして、人々にお金に関する考え方を変えるよう提唱することがあります。言うは易く、行うは難し。そのような考え方は、「私が何者であるか」を中心に据えた全体パターンである、より大きなモザイクの一部なのです。それが変化することで初めて、関連する考え方もそれにつれて変化し、新しい、もっと美しいパターンへと変ずるのです。しかし、「私が何者であるか」が変わらなければ、いくら「否定的であること」を避けようと努力しても、他の考え方をその自己や分離に沿ったものへと引き戻します。「否定的であること」は、自己と世界に関する私たちの最も基本的な神話の中に組み込まれているのです。
究極的には、「インタービーイングの物語」に少しでも足を踏み入れない限り、個々の信念を変えることは不可能であり、世界に「分離」のイメージ以外のものを創造することも不可能なのです。あなたが何をしても、実際には本当の意味で役に立つことはないでしょう。たとえ「善人である」ために私利私欲に反対して闘ったとしても、あなたは(自分にも他人にも)善人であるように見せるという目的のために奉仕しているのであって、実際には他人や世界のために奉仕しているわけでないのです。ですから、善人であろうとすることをやめましょう。その代わりに、自分が誰であるかを選ぶのです。そこから生み出されるものは、隠れた虚栄心から達成するものより、はるかに大きな奉仕となるのです。それに加えて、「善人である」という私たちが部分的に意識している概念は、現状を永続させるために役立つ社会的適合やブルジョア道徳のメカニズムと絶望的に絡み合っています。それは、私たちが古い物語を不通にする大胆な行動をとることを抑制しています。この点で、私たちはサイコパスから学ぶべきことすらあるのかもしれません。
もっと美しい世界に向けた効果的な行動はすべて、「私は何者なのか?」から生まれると言えるもう一つの理由は、この問いがもうひとつの問いを暗示しているからです。それは、「あなたは誰なのですか?」です。つまり、私たちは自分自身を見るのと同じレンズを通して他者を見るのです。他の人たちを、与えること、奉仕することを望むインタービーイングの存在として見ることで、他の人たちが自分自身をもそのように見ることができるような空間をホールドし、私たちはそれに応じてその人たちと関わります。一方、他者を利己的で分離した存在と見なせば、私たちはそれに応じて他者と関わり、力による駆け引きを用いて、敵対的な宇宙で孤独であるという物語へと他の人たちを押しやることになります。
先に、アクティビストの戦術が、相手の世論に対する恐怖心や利益欲を利用することに基づいていて、実質的に相手に対して「あなたのことはわかっていますよ。あなたは利己的で堕落しているのです。正しいことをやりたがらないわけですから、私たちが強制するしかありません」と言っていると私は述べました。誰かについてそう信じるには、自分自身のこともそう信じなければなりません。たとえその人たちとは違って、自分自身はそれを克服していると自分に言い聞かせていたとしても。さらに、誰かをそう信じることで、私たちはそのストーリーをその人たちへと開き、その役割を果たすようにと招いています。彼らがその役割を果たすと、私たちは自分たちの戦術と彼らについての私たちの見立てに正当性があると感じるのです。しかし、新しい物語の中に立つと、同じダイナミズムが逆の効果をもたらします。私たちは、これまで敵対視していた人たちや、私たちがジャッジしたすべての人たちを含め、「私はあなたを知っています。あなたは、その神性を奉仕の中で表現したいと渇望している、気高い神聖な存在ですね。あなたも私と同じように、もっと美しい世界を創造するために自分のギフトを用いたいのですね。」と、周囲にいるすべての人たちを見るのです。
私たちの多くは、新しい物語の中に独りで立つことはできません。そうすることが、インタービーイングの基本原則と矛盾するからです。もしあなたが私の一部であるならば、そうすると、もしあなたが「分離」の物語の中にいるのならば、私の一部もその中にいるのです。主は、私たちを古い物語の中に留めている多くの社会的、経済的な力が存在していることを知っておられます。奇跡や崩壊は、私たちを一時的に「分離」の世界の外へと突然至らせることができます。しかし、そこに留まるために、私たちの多くは助けを必要とします。これは私たち全員がお互いに与えることができるものです。ですから、私は悟りとはグループでの取り組みだと言うのです。
「再会」への道には紆余曲折があります。ときにはヘアピンカーブによって、一歩一歩が目的地から私たちを遠ざけているように見せることもあるでしょう。こうした転回の場も、行き止まりや同じ道を通って戻ることも、すべてはインタービーイングという新たな領域を通っている道の一部です。その領域、それは私たちには馴染みがないものです。地図はほとんどなく、私たちは道の見方を学べていません。目に見えない道をたどり、その道を辿る術をお互いから学んでいるのです。そうするにつれて、その微かな印が見えるようになり、道が見えてくるのです。地図がなく、新しい物語のごく最初の段階では、それらの選択がどのように目的地へと至らせるかはわからないまま、それぞれの選択ポイントにおいて、ハートの羅針盤に導かれた直感に従うしかないのです。大抵、私たちの分離からの習性は、私たちの目に見えている古くて使い古された道へと私たちを迷い込ませます。迷路から抜け出すための古の足跡を目にするために、私たちは新しいビジョンを明らかにしなければなりません。ストーリーの背後にある真実、地形そのものを見なければなりません。
私たちが歩いていると、目的地が隠れたり現れたりするのです。丘を登っていくと、そこにあるのです!どういうわけか、さすらいの旅は私を近くまで運んでくれました。渓谷を下り、道に迷い、正しい方向を探しながら、私が目にした目的地が本当に存在するのかを疑うようになりました。そういった時に、私は別の旅人に出会うのです。「ええ、私も目にしました」と彼は口にします。目に見えない道の歩き方について学んできたことを分かち合うのです。この領域に脚を踏み入れる者が増えるにつれて、こうした出会いはより頻繁に起こり、私たちの心が実現可能だと知っている、もっと美しい世界へと向かう道を共に見いだすのです。
この道の途上でのよくある一つのパターンは、新しい領域への最初の冒険はしばらくの間は順調でも、直に人生が「本当にいいのか?ここで本当に生きていきたいのか、それがなりたい自分なのか?」と問う体験を与えてくるというものです。例えば、自分の心に従えば大丈夫だと信じて、経済的な安定をもたらしていた仕事を離れます。しかし、奇跡のような仕事は現れず、貯金は減り、「どうにかなるさ」という自信の背後に隠れていた恐怖が前面に出てくるのです。あなたは何者なのでしょうか、本当は?もしすべてが順調に進んでいたのなら、その問いに正面から向き合う必要はなかったのでしょう。本当の自分を明らかにするためには、時に厳しい選択を迫られることがあります。「もしも」の恐怖が現実になったり、あるいはそうなるであるかのように説得力があるように見えるのです。ある女性が私に、「もし私が自分が望むことのために立ち上がりはじめたら、夫が私の元から去ってしまうのではないかと恐れています」と言っていました。やがて、彼女はそうすることにしました。そして、彼女の夫は実際に去ったのです。今までのような生き方をやめれば、もしかしたら最悪の事態が訪れるのかもしれません。少なくとも、そうなる恐れがあります。そうして、自分が真の選択をする気持ちがあるのか、それとも、うまくいかなくなりそうになったらすぐに撤回する準備ができていて、すべてがうまくいくという希望を前提にした条件付きの選択をする気持ちがあるのかがわかるでしょう。
このような一連のイニシエーションを経て新しい物語の中へと入っていくとで、その人はその物語の中で力を増すのです。その物語の中で力強くあることで、他の人たちにもその物語を開いてあげることができるのです。危機の最中であったり、自分自身のイニシエーションに直面していて、たとえ誰かが「インタービーイングの物語」を信じることができなくても、イニシエーションを経た強き人は、その人のためにそれを信じることができ、その人がその中へと脚を踏み入れる準備ができるまで、その可能性を開いておくことができるのです。イニシエーションのたびに、私たちはより力強い担い手となり、私たちの言葉や行動はその物語の語りの一部となるのです。
本書が、新しい「人民の物語」の語り手、運び手、そしてそれに仕える者として、あなたを力付ける一助となったことを願っています。最後に、私自身の物語で終えようと思います。