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もうひとつの時間と豊かなつながり

縄文の中心地の一つだった北杜市で連休を過ごした。

それは慌ただしい生活に身を任せていては感じ取れない、でも確かに誰の心の奥底にも必ず存在している「もうひとつの時間」(星野道夫さんの言葉)を思い出すための機会だったのかもしれない。

表情を変え続ける川に向かい、目に飛び込む限りの風景全体をゆったりととらえるようにして眺め、その川の流れ、水の感触や風を感じる。

手付かずの森に入り、その太古から湧き出るような雰囲気に身を委ね、目には見えない豊かさをも吸い込んでいくことで、目の前に広がる苔むすような深い静けさが意識全体に染み渡っていく。

馬頭琴の音色に揺られ、誰かがさりげない優しさをもって用意してくれていたお白湯を口に出来る幸せな朝。身体がまだ目覚めきれていなくても、心の中ではほんのりと笑顔が浮かんでいた。

斬新な土偶研究のお話を聴くことで、縄文時代に生きた人たちとその生活がより身近に感じられ、何千年と続いた平和な時代の意識が少しでも自分の内に流れ込んできただろうか。

沢の手入れ。木々の手入れとはまた一味違った学びがそこにはあった。たった一枚の葉や短い枝を取り除いていくだけで、水の流れが新しいものに変わる。自分が手を入れたことでより整ったように映る流れの上をイガをまとった栗がスイスイと流れていった時に浮かんできた、自分、そして人間がここにいる意味はやっぱりあるんだよなという思い。

疲れきった身体に触れ合って、優しく揺らしたりマッサージすることでお互いがほぐれていく。外側の流れを整えたり、内側の流れを整えたりすることで、場全体がほぐれ新たな流れのための空間が生み出されていく。

何かの巡り合わせでその場に居合わせた10代から60代までの老若男女が、全体を意識して行動することを何となく自然と学んでいき、一緒に料理や片付けをしたり、夜遅くまで語り、笑いあったりする中で、そのグループという生命体が徐々に一体感を持って呼吸し始める。

全体の自然な流れを堰き止めているであろう無意識の癖や抵抗、自分の傲りに気付かされて落ち込む場面も実は何度もあった。それでも、それらの癖や抵抗、傲りを無理に変えようとするのではなく、それらに仮の住処を与えるようにして全体の中に迎え入れ、その時の等身大の自分で誰もが出来るだけいられるような安全な空間が自然と創り出されていった。

感じることが出来た自然に即したリズムと確かに紡ぎ出された一体感と共に毎日生きていくことはまだ叶わないのかもしれない。今は、「もうひとつの時間」と豊かなつながりの確かな感触を携えて自分の生活の中でこの世のために出来ることをしていくのだろうか。

都会にいても自然の中にいても、流れを少し滞らせている目の前の一枚の葉を取り除くようにして、それぞれが少しずつ無理なく自然な流れを取り戻していけばいいのだと思う。

冒頭の写真はこちらから拝借。

2枚目の写真はこちらから拝借。



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