「私たちの心が実現できると知っているもっと美しい世界」 サイコパシー (第28章)
本の内容紹介、著者チャールズ・アイゼンシュタインについてと目次。
変化は時の権力者たちに打ち勝つことではなく、彼らの変容によってもたらされると論じました。私たちが、多くの目を通して世界を眺めている根本的には同じ存在なのだと述べました。私たちの悪の認識は、他の人のようになるのはどのような感じなのかを理解していないことに起因していることを説明しました。私たちが他者に対して行っていることは私たち自身に対しても行っていることであり、それは感じることができる何かであると主張しました。そして、私たちは皆、自分たち自身よりも偉大な何かにギフトを捧げるためにここにいるのであり、それをしていなければ決して満たされることはないというギフトの原則を呼び起こしました。これらすべてへの答えの中で、ときに人々は、慈悲を欠き、愛を感じる能力がなく、恥も知らないとされる人類における明確に異なる一集団、サイコパスを反証として持ち出します。
サイコパスの人たちは、完全に自分のために行動し、短期的な自己利益を冷酷に追求しても良心の呵責で苦しまないと言われています。情はなく、魅力的で、カリスマ性があり、大胆で、情け容赦ない彼らは、ビジネスや政府の中でトップへと上り詰める傾向があります。大体において彼らは権力者であり、露骨な力以外で止められると考えるのはナイーブです。憐れみもなく、良心もなく、いくつかの基本的な原始的な感情以外を感じる能力さえない彼らは、悪そのものです。多くの研究者によると、彼らを治すことは決してできません。治ることを彼らは望んでいないのです。そのままの状態で彼らは幸せなのです。
サイコパシーの原因については合意がありません。この分野の最も著名な研究者の一人であるロバート・ヘアは、きっぱりと誰も本当に手がかりを掴んでいないと言っています。サイコパシーに対する遺伝的素因があるのかもしれませんが、それさえも確かではありません。
上記のナラティブがそのままにされると、私たちの世界観に善と悪の物語が再登場してしまいます。誰がサイコパスで、誰がサイコパスでないと、誰がわかっているのでしょうか?「サイコパス」は、「邪悪な人」を表す科学的に認められた言葉となっているのです。
善対悪の物語とそれに付随するすべてのもの(世界を変えるための主要な手段としての力の必要性など)を正当化するためにサイコパスを浮かび上がらせることは誤解を招きます。サイコパスと呼ばれる救い難い人たちが存在することを私たちが一旦認めるとしても、彼らが成功する諸条件がシステム全体に浸透していることもまた真実なのです。進化生物学と経済学の両分野における伝統的な見解は、私たちの基本的な性質は本質的に極めてサイコパス的なものであると主張しています。つまり、人間は自己利益を最大化するよう駆り立てられており、自己利益と矛盾するように見える特性が存在しているのは、すぐには明らかにはならない方法で、それらの特性が自己利益を図っているからなのだというのです。ある種の求愛行動としての利他主義や他者のコントロールや地位を得るための手段しての寛大さが例として思い浮かびます。このパラダイムは、私たちの経済システムの中に織り込まれています。自身の企業の利己的な利益を最大化しなければ、それをやっている他の企業によって打ち負かされるのです。最もお得な買い物をしようとする消費者としても、値札に込められたインセンティブは、その商品を作った労働者たちが最低限の生活ができるだけの生活賃金を支払おうという衝動や環境に配慮した実践を取り入れようという衝動と矛盾することが多いのです。それらの商品がより高価だからです。サイコパシーを報いるシステムの中で生きていると、サイコパスたちがトップへと上り詰め、私たち一人ひとりの中にあるサイコパス傾向が表面に現れてくるのは偶然ではありません。現状をサイコパスたちのせいにするのは間違いなのです。サイコパスたちは結果であり、原因ではないのです。
どのような状況下で、あなたは冷淡で無情になりますか?どのような状況下で、あなたは共感力を遮断しますか?自分の利益のために他人を巧みに操ろうとするのはどんな時でしょうか?私がそうしていることに気づくときとは、たいてい不安を感じているときです。
不安は私たちの「世界の物語」の中に組み込まれています。それは、競合する他者、ランダムな出来事、感情を持たない自然の力からなる反友好的な宇宙の中に、分離した自己が存在しているというものです。不安はまたその物語から起こる構造の中にも組み込まれています。例えば、客観的に言えばすべての人のための豊かさが存在するにも関わらず、基本的なニーズを満たすことについてでさえ、その経済システムは私たちを競争へと放り込むのです。私たちが目にする顔には名前がなく、有料で見知らぬ人たちが私たちのニーズを満たし、隣人でさえも私たちの物語をほとんど知らない大衆社会の中で生きることは、同じようにどこにでも存在する不安を助長しているのです。「分離の世界」での私たちの行動は、その世界の前提をますます強めるものであり、私たちを自己中心的な効用最大化型の準サイコパスへと変えるのです。
いかなる文化の特性であっても、それを極端な形で体現し、私たちが自分たち自身の中にそれを認識できるように鏡を掲げている人たちが必ずいます。その人たちがサイコパスなのです。(注1)
それでもなお、サイコパス的な傾向を持つ人たちは今日、大きな権力を握っており、その権力に挑もうとするものは何でも潰すように行動しています。ということは、最終的には力の行使が必要だということなのでしょうか?無条件にそれを否定するつもりはありません。私自身、力を行使するかもしれない状況があります。例えば、私の子どもたちが脅かされた場合です。しかし、このような状況から推定するのは危険です。いつの間にか、誰もが間接的に自分の子供たちが脅かされていると思考してしまい、政治的な目的のために拷問を正当化する「時限爆弾的な」シナリオがでっち上げられてしまいます。さらに、暴力が正当化されるときとされないときを区別するための倫理的原則を示そうとすることさえ危険な妄想を永続させるのです。私たちが選択するべき(そして時には実際に選択する)方法は、事前に指針を理論的に考え出し、その原則に基づいて行動することなのだと。実のことを言えば、この本に何を書いても、どんな信念を公言しても、もし自分の子どもが実際に脅かされていたとしたら、きっと何か別のことが遂行されるでしょう。私は戦うでしょうか?そうかもしれません。「こんなことをするなんて、よほど追い込まれているのですね。どうされたのですか?」と冷静にその人に向かい合って言うでしょうか?そうかもしれません。この選択はある程度、生涯の経験と学習によるものなのでしょう。もし私が非暴力の理論と実践を深く探究してきたのであれば、戦うことが最善の選択ではないときに、非暴力をうまく用いる可能性が高くなるのかもしれません。しかし、非暴力による行動の精神を吸収し、統合することと、それをルールとして設定し、いざというときにそのルールを自分に課すことができていると想像することはまったく異なることです。「原理に基づく人間」を目指すことはある種の分離であり、コントロールの仕組みの一部なのです。それは、直感や本能、そして多くの場合、心を無視する試みです。歴史上、どれだけの残虐な行為が、一つ、または別の原理で正当化されてきたことでしょう?
サイコパスたちが社会で権力を握っているというのは、具体的には何を意味するのでしょうか?人間社会における権力は、その社会内での合意に左右されます。サイコパスの会社経営者は、個人として強い腕力や大きな銃器を持っているから権力を握っているわけではありません。彼の威圧的で巧みに操る力は、主にお金と関連する企業統治機構に依存しています。そのすべての最後には、ルールに従わない人々を強制するための腕力や銃が確かに用意されていますが、そうだとしても、彼が個人的にそれらの銃を使うわけではありません。それらの銃は、他の誰よりも極めてサイコパスなわけではない、至極真っ当な警察官や警備員たちによって使用されるのです。
言い換えれば、複雑な社会における権力は、物語から、つまり、私たちの世界の支えの足場となっている合意やナラティブでできているシステムから生まれているのです。私たちの現在の物語は、サイコパスの台頭を促し、サイコパスに力を付与しています。力ではなく物語が、究極的には権力者たちを力づけているので、権力者から力を奪い、システムを変えるために行動をしなければならないのは、力ではなく物語のレベルなのです。だからこそ、変革のための主要な手段として力を提唱することは逆効果であり、私たちの現状のそもそもの根源にある「分離の物語」とまったく同じものを強化することになるのです。その物語の一つの側面が、善良な人たちが悪者たちを倒すためについに立ち上がるという物語なのです。
そこで、サイコパスというカテゴリーについて、もう一歩踏み込んで考えてみることにしましょう。サイコパスは単に生まれつき共感能力に欠けているというのは事実なのでしょうか?別の説明は、サイコパスは共感力を持っているけれども、幼い頃にそれを封じてしまい、自分自身を感じられないようにしてしまったというものです。なぜそのようなことが起こるのでしょうか?
それは、サイコパスが私たちが考えるものとは正反対の存在だからなのかもしれません。サイコパスが生まれつき感情を持たない誰かなのではなくて、むしろ感情的な痛みに対する並外れた共感能力と感受性を持って生まれた誰かだとしたらどうでしょうか。その激しさに耐えられず、その痛みを完全に遮断するのです。私たちの多くはそうする必要がありません。なぜなら、世の中にある膨大な痛みがそれほど強くは影響を与えないからです。あるいは、より深いところにある疼き、そこまで即効性がない痛み、そこまで生々しくはない痛みなど、異なる方法で私たちに影響を与えているのです。
私たちの子育て文化が、特に男の子の感情の遮断に寄与している多くの手段を思い浮かべることはできるのではないでしょうか。子供時代の範囲を超えて、この文化は社会全体に浸透しています。過去50年の間に、なぜ「クール(カッコいい)」という言葉が抜群の支持を得ているのか不思議に思ったことはありませんか?なぜ「クール(冷たい)」と「いいね」が同等になるのでしょうか?なぜ感情をクールにすること、あまり感じ入らないこと、あまり関心を見せないこと、何事にも真剣に取り組まないことが望ましいのでしょうか?その一つの理由は、あまりにも苦しくて耐え難い世界から身を引きたいという衝動なのかもしれません。もう一つの理由は、関心を寄せるようにと提供されている物事の多くの破綻を私たちが認識しているからです。ニュースメディアは、私たちに取るに足らない事柄や茶番劇となっている事件を無限に提供し、衝撃的で一見つながりのない恐怖を定期的に入れ込むので、私たちは受け流すことを学びます。私たちは自分自身がサイコパスであるがために、これらに慣れてしまうのでしょうか?それとも、それが一種のショーであり、より深い病の症状であると感じているからなのでしょうか?広く流布しているストーリーが、私たちが本当は心を寄せたいことの多くを覆い隠してしまっているために、私たちは行動していくことを差し控えているのかもしれません。
多くの代表的なサイコパスの行動は、感じること全般が遮断されているというコンテクスト内であれば理解できます。感じることに耐性があるサイコパスは、それでも私たち皆と同様に、感じたいという強い生理的欲求を持っています。そのため、サイコパスは衝動的な行動、ドラマ、自己利益に全く結びつかない無意味に危険な行動の犠牲となるのです。自分が築いた壁を破るほど強力なものは何でも彼を惹きつけるのです。あるサイコパスたちにとっては過度の心酔であり、他の者たちにとっては殺人、商談をまとめることもかもしれません。あるいは大きなリスク、大きな買い物、大博打かもしれません。多くのサイコパスたちは、生きていることを感じさせるような物事に常習的になっていると時折語っています。ほとんどの学術研究者は、サイコパスは、共感の欠如と衝動性という二つの独立した変動軸が組み合わさったものであると信じています。私の仮説では、この二つは密接に関連しているものです。危険な行動とは、感じることの欠如に穴を開けようという試みなのです。
この仮説を裏付ける研究がほとんどないことは認めざるを得ません。(注2)まず何よりも、私自身の経験をそれの根拠としています。私は非常に繊細な子供でしたが、10代前半に受けたいじめがトラウマとなり、自分の感情のほとんどを遮断することを学びました。その遮断はサイコパスのものほどは深くありませんでしたが、それでもそれは私にかなり冷酷に人を操るようなことをできるようにさせました。私はまた、衝動性やドラマへの偏向のような、他のサイコパス的な特徴も見せていました。私は無感覚の中に閉じ込められており、感じることをひどく求めていました。トーリ・エイモスの歌詞が心に訴えました: ”私に命を与えて、痛みを与えて、自分自身を再び与えて。”
さらに、私は数人のサイコパス的な個人と幅広く交流してきました。そのうちの一人は、とどまるところを知らない非情さを持った男で大いにサイコパス的でした。彼のことをCと呼びましょう。彼は他にも、口先だけの自己正当化、恥じることのなさ、極端な衝動性、並外れたカリスマ性、そしてしばしば無謀へと足を踏み入れる大きな肉体上の危険に立ち向かう勇気など、代表的なサイコパス的特徴を持っていました。しかし、それとは別の何かを一瞬垣間見たことが何度かありました。それは例えば、自発的で、秘密裏で、時には寛容さと気遣いから成る度量のある行動としてのように入り組んだ形で彼の柔らかさや純粋さが現れていたのです。これらは、彼が日頃から行っていた、立派な人に見せかけるためのひねくれた仕掛けとは全く別のものでした。そこには何か別のもの、真の人間が存在していました。私が知っている限り、その真の人間はまだ深く埋まっています。しかし、それはそこにいて、どうにかすると、いつか目覚めるかもしれないのです。
変容が可能かどうかは別として、現実問題として、ほとんどのサイコパスたちはただ止められればいいだけなのかもしれません。私がサイコパスの起源についてこのような思索をしたのには二つの理由があります。ひとつは、悪の存在に関するありふれた議論に代わるものを提供するためです。私たちを取り巻く世界を見ていると、確かにサイコパスたちが主導権を握っているように見えることがあります。私が伝えたいことは、悪は原因ではなく結果であり、悪に対抗するために戦争をすることによって、戦争の原因をさらにそれ以上のものにしてしまうということです。サイコパシーは、私たち全員の内部と私たちを取り巻く文化に存在するものの極端な表れなのです。それは、私たちの拡張された存在の切り離しから生まれているのです。
私がこのテーマをあえて取り上げた二つ目の理由は、サイコパスの変容が私たちの文明の変容と密接な関係にあるからです。自然や人間を自分たちの目的のために搾取し、造りものの魅力で他の文化を巧みに陥れ、進歩というもっともらしい物語ですべてを正当化してきた私たちの文明は、ほとんどサイコパス的だと言えるでしょう。もちろん個人のレベルでは、発展の道を阻んでいる生物種や文化、生態系に共感を感じますが、集団としては、私の友人や彼が時折見せるひねくれた人間性のそぶりのように、私たちはそれを止めるために断続的に行動しているのみなのです。さらに、「どうすれば再び感じることができるようになるのか?」という問いは、サイコパスと呼ばれる人たちだけではなく、すべての人に影響を与えます。なぜなら、私たち一人一人も、それぞれに拡張された自己の一部とのつながりを感じることから切り離されているからです。
折しも、サイコパスが変われるということを私は知っています。なぜなら変われた人を知っているからです。私が大学で教えていたときに、22歳の学生が私のオフィスにやってきて、かなりショッキングな告白をしたことがありました。彼は、自慢するでも恥じるでもなく、淡々とした口調で、「私は○○でトップのコカイン卸売業者なんだ。週に1万ドルの現金収入があって、それをすべて使っている。毎日ドンペリニヨンを飲んでいるんだ。夜、外出するときには、都心からのボディガードを四人つけているのさ。検察が私についてのファイルを持っているらしいが、私は気にしていない。」と話していました。
「そうですか、それではとても良い状態なのだと思うのですが、それで何か問題なのですか?」と私は彼に言いました。
「そうだな、ちょっと飽きたんだよ。それは私に何も与えないんだ。キャンパス内を歩いていると、顔の代わりに100ドル札が歩いているのが見える。彼らは皆、100ドルを自分のディーラーに渡し、そのディーラーは私に渡す。私はもうそのことに興奮を覚えない。今の仕事を辞めようかと思っているんだ。」
「それは簡単にはいきませんね。」と私は警告しました。一度その世界に入ったら、離れることはほぼ不可能なのです。「無数の手があなたを引き留めるでしょう。」
Fが仕事を変えることは簡単なことではありませんでした。多くのサイコパスたちがそうであるように、彼は共感性を欠くことにまして、いろいろな意味で並外れていたのです。彼は、驚くほどの創造性、カリスマ性、才覚を持っていたのです。従来のルールやモラルに対するいらだちもですが。ほとんどの仕事で、彼は「なんで俺がすべきなんだ?」という疑問にあっという間にぶつかっていたのです。初めての仕事はアイスクリーム屋で、そこで彼はすぐに「自分でアイススクリームをすくいやがれ!」という態度を露わにしました。住宅ローンを売る仕事に就き、最初の1ヶ月ですべての販売記録を塗り替えましたが、その後辞めました。彼は写真をはじめ、未経験にもかかわらず、数ヶ月で撮影料数千ドルを稼ぐようになりました。その理由は、彼にセールスマンとしての能力があったからだけでなく、被写体となる人の普段の警戒心を解きほぐす能力を持っていたからです。写真は少し長く、彼の関心を惹きましたが、すぐにその活動の意味を見いだせなくなりました。彼はもっと創造的な表現に集中したいと思い、大金を得るために普通行われるようなことをするのが面倒くさくなったのです。彼は無料で仕事をするようになりました。
この時期の間にFは、特に禁酒を決意した頃から、膨大な感情的及び精神的な苦痛を味わうようになりました。彼は、並ではなく、並外れた感情移入能力を持つ人間になったのです。現在、彼は赤ん坊の息子と一緒に家で過ごしていて、写真やその他のデジタルアートと戯れています。彼がその天才的な能力を最終的にどこに向けるかはわかりません。私たちの社会には、彼のような人のために用意されたポジションはありません。彼は自分を小さくしなければ溶け込めませんでした。そんな人たちを受け入れるために、世界が広がったとしたらそれはどんなものになるでしょうか?
彼の状況は、私たちの状況とも同じなのです。社会は、私たちを不自然に小さくすることによって、その社会の箱に収まるようにしています。それは私たちがその箱の中で共犯者となるプロジェクトなのです。もし縮小プロジェクトが失敗したり、否定されたエネルギーが抑えられなくなったりしたら、社会にはあなたの居場所はなくなるでしょう。十分に感じながら、普通の社会で機能している一員となるのは不可能なことです。私たちがあまりにも感じすぎれば、あまりにも心を寄せすぎることになり、自動車の歯車に油を差すような役割には耐えられなくなります。良いニュースは、この自動車が私たちが崖の端で走っているのとまったく同じ自動車だということです。
先に述べた「クール」の二つ目の理由、つまり、私たちが心を寄せるようにと提供されている物事の破綻の認識についてを思い出してください。サイコパスたちはこの性質を大きく備えています。彼らはプレッシャーに対して異常に冷静であるだけでなく、社会が私たちを支配するために用いる報酬や恥のメカニズムの多くに比較的影響されません。特に、私たちの行なっている活動が多くの社会規範に反するものである場合、多くのアクティビストたちもこうした制約から自由になりたいと願っています。人々が考えることから自由であることは、多くの望ましいサイコパスの特徴のひとつに過ぎません。実際、サイコパスは、無執着、集中力、今この瞬間に存在すること、勇敢さなど、普通は霊的指導者たちに関連づけられる多くの特徴を持っています。実際、一部の有名な霊的指導者たちはサイコパスだったと言い切る人もいるかもしれません(グルジェフやチョギャム・トゥルンパが思い浮かびます)。
もう一つ、『列子』第四巻の中の話を紹介します。
サイコパシーには、目に見える以上のことが存在しています。私たちはサイコパスを悪というカテゴリーの中に押し込むことはできますが、それはサイコパシーのさまざまな側面を無視することによってのみ可能なのです。私がまだ言及していなかったもう一つの糸口は、サイコパスたちが年齢を重ねるについて、「まろやか」になり、共感性が高まる傾向があるということです。あるいは、彼らの快感を生み出していた物語が陳腐化してしまう可能性もあるのでしょうか?この可能性を感じながら、私のサイコパス的な友人であるCに対して、私は彼が目標を達成するにあたっての機知や大胆さについて真価を認め、彼と一緒になって笑ったりする一方で、最終結果(ある女性たちを寝取る、ある人たちを辱める、ある取引をまとめる)には感銘を受けていないことを示し、「あなたが参加できるもっと大きなゲームがある」ということを彼に伝えようとしました。
ほとんどの人たちはCほど極端ではないですが、取るに足らない報酬を求めて奮闘し、それらを達成しても、「だから何だったていうんだ」というなかなか消えない感情を残す、自分がプレイすることができるよりも小さなゲームにはまり込んだことが今までないと言える人が私たちの中にいるでしょうか?サイコパスであろうとなかろうと、この社会のゲームの勝者たちは、最もだまされている人たちなのです。
一世代か二世代前、地球はまだこのような苦痛の中にはおらず、私たちには進歩と征服の「上昇の物語」があり、それがそこに存在していた苦痛の多くを、その痛みはやはり大きなものだったのですが、やわらげていました。現在では、地球上の生活をより良くしていくテクノロジーの物語が揺らいでおり、その痛みは私たちが否定しようとしてもできないほどに大きくなっています。しばらくの間は、気を紛らわせることや、私たちが感じることのできる、重要ではない領域を見つけることができるかもしれません。スポーツの祭典、アクション映画、ファンタジー小説、芸能人のニュース、そしてメインストリームメディアに定期的に登場するさまざまな非常に痛ましいニュースはすべて、私たちが感情を馴らし、普通としての生活を続けることを可能にしています。しかし、やがて私たちは取るに足らないことを気にしなくなり、悲劇もまた、単に機能不全から成る深い層の目に見えている露出に過ぎないと気づきます。人生が意味をなさなくなるのです。Fが住宅ローン会社で思ったように、私たちは何の意味があるのだろうかと疑問に思うのです。経済的な困窮を恐れ、仕事や学校でたゆまず努力し続けますが、ある時点で、それだけでは私たちを続けさせるのには十分でなくなるのです。次の打つ手は薬です。抗うつ剤で痛みを和らげ、抗不安剤で何かがひどくおかしいという感覚を抑え、興奮剤がどうでもいいことに目を向けさせるのです。しかし、これらはすべて生命の力を地下深くへと追いやるだけなのです。そこに生命力は溜まっていき、やがて癌として湧き上がり、自己免疫として身体に反旗を翻し、暴力として外側へと爆発するのです。過去20年間に起きた学校での銃乱射事件のほとんどすべてに、精神科の薬が関わっているのも不思議ではありません。
その膨大に蓄積している生命力を何か大切にするに値することに向けることができたら、この世界がどうなり得るかを想像してみてください。確かに、ほとんどの人は、個人のレベルでは大切にする価値のあるものを手にしています。抱かれるべき赤ちゃん、泣きつける肩、植物を植えるべき庭があるのです。私たちの「世界の物語」とそのシステムは、こうしたシンプルな奉仕の道筋を、急ぎ足の生活の端に押しやってしまうことが多いのです。その上、少なくとも人生のある段階において、私たちはこれら以上のものを必要としています。だからこそ、私たちは、特に若者たちは、大義に飢えています。Fのように、私たちは関心を持ちたいのです。心の水門を開く方法を見つけ出したいのです。「アフリカのポリオをなくす」とか「インターネットに自由を」のような事柄は一時的には役に立つかもしれませんが、やがて私たちの気持ちを掻き立てなくなります。そして、燃え尽き症候群や共感疲労を通じて、再び心の門が閉ざされるのです。私たちの中には、これらの大義を単独で取り上げたとしても、倦怠感、無関心、熱のなさを突き破ることができない人もいます。私たちは、自分が奉仕している偉大なものが何かを見ることを必要としているのです。私たちが本当に大切にしている世界についての物語が必要なのです。
注
前近代社会におけるサイコパスたちの存在については十分な説明が可能です。しかし、これらの社会におけるサイコパスの発生率は、おそらくこれらの文化が体現していた「分離」の程度が小さかったことを反映して、はるかに低いようです。サイコパスが完全にいなかったわけではありません。家畜化、あるいは象徴文化(言語)を採用した社会は、すでに「分離の道」をすでに歩みはじめていたと主張する人もいます。(例えば、ジョン・ザルザンの『Elements of Refusal』を参照)。
例えば、Willem H. J. Martens, MD, PhDによる「Emotional Capacities and Sensitivity in Psychopaths」を参照。