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国始事 試し読み3(天稚彦と下照姫)

(『国始事くにのはじめのこと』第二部より。下界に遣わした天稚彦あめわかひこから何の報告も無いことを怪しんだ高皇産霊たかみむすひは様子を探らせるために雉を下界に送る。雉が地上へ行くと、そこはちょうど秋で、刈り入れの季節だった。雉はやがて立派な屋敷を見つけて、その門前の桂の木にとまる。屋敷の庭では下照姫したてるひめ天稚彦あめわかひこが仲睦まじく座っていた。)

しかれば高皇産霊たかみむすひ、また下界したを探らしめんとして、
無名雉なゝしきゞし一匹ひとひきを召し出でゝのたまはく、「これ、
きゞしよ、なれいひつけす。天稚彦あめわかひこといふ者を
地上つちへ使ひに遣りてからすでに八年やとせぬれども、
打ち絶え来報かへりごとあらず、ことさま知れがたければ、
下界したにて何が起こりしかうかゞひに行け。」さりければ、
きゞしさく鳴きて、すぐあめしたへと飛び下りつ。
 棚引く雲を抜けたれば、涼しき風に打ち靡く
秋の尾花がさらさらと野原のおもにさやげりし。
田には黄金こがねの稲が揺れ、人はせはしく穫り入れし
稲穂を稲架はさに干したりき。きゞしはそこに建ちたりし
めでたき殿との門前かどさきかつらの枝に留まりたり。
殿の庭には一組の夫婦めをとぞ共に寄り居しに、
下照姫したてるひめ妻君めぎみにて、天稚彦あめわかひこ夫君をぎみなり。
くれなゐのもみぢがほろほろと降り積む中に
仲睦まじくりしかば、下照姫の問ひたまふ、
「われら夫婦いもせとなりてから早八年やとせなむ過ぎにける。
久しく天上あめの神たちにまみえたまはぬやうなるが、
報告かへりごとしに出でまさで神たち怒りたまはずや。」
天稚彦の、さりければ、女君めぎみに答へたまへるに、
「怒らば怒るまゝにせん。われは天上あめには帰るまじ、
ねを初めて見てしよりあめのことなど忘るれば。
彼方かなたの神の心など誰かは構ふべからめや、
ねのごとくに香ぐはしき妻の隣にゐるときに。
見よ、くれなゐのもみぢ葉がわれらの庭に降り積もり、
快く吹く秋風に荻の花なむさやぐなる。
田には稲穂がさはに揺れ、人は実りを倉に積む。
地上つち天上あめより豊かなり。地上つちこそものゝあはれなれ。
われの望みはこの日々がたゞいつまでもうちはへて
続くことのみ。神たちの目から隠れていつまでも
こゝに暮らさん。あゝ、あめは不幸せなり! このつち
得さする富をひとかけも知らざれば! 今、わが君は
天上あめの神たちならず、わが汝妹なにもなりけり。ねこそが
このわが胸に君として永久とはにますべきものなれば。
かしこき君よ、やつかれを長くさぶらはしめたまへ。」

補足(本にはつきません)
きゞし:キジの古い言い方。
ね:男性が女性を親しんで呼ぶ言葉。
さやぐなる:終止形に接続する方の「なり」。さやぐのが聞こえる。「荻の花なむ」の「なむ」によって係り結びが生じ、連体形で終止している。
汝妹なにも:同じく女性を親しんで呼ぶ言葉。
やつかれ:しもべ、また自分をへりくだって言う一人称。本作では、本来「君主」と「下僕」を意味する「君」と「僕」が人称として使われるようになったことのもとを天稚彦に求める。

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