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国始事試し読み5(長髄彦登場)
(『国始事』第五部より。国の中心を目指して東征を進める磐余彦は、膽駒山の孔舍衞の坂で突如敵からの急襲を受ける。大木の後ろに隠れながら何者か名乗れと問うと、敵の首長らしき大男が現れ、山止の国の長髄彦と名乗る。)
さて、少し後、東へ向かひて進む皇軍が
膽駒山の孔舍衞の坂のふもとに着きし時、
坂の上からゆくりかに矢の雨ぞ降り注ぎ来し。
坂を挟みてたちまちに矢の射ち合ひになりたるが、
高きところに構へたる方にやゝ分がありしかば、
射ち合ふほどに栂の木のいや次々に皇軍の
兵士どもぞ射取られて、つひに磐余彦、「盾を
下ろさず、後へ退け!」と仰せ下せり。さりければ
みな辛くして矢の雨を避りつゝ後に下がりしが、
その時、特にいち早き流矢なむありて、いや
篦深に、五瀬命の肱脛にこそ刺さりしか。
驚きたれば、者どもはかたはらの大きなる樹の
後ろに五瀬命を運びまつりて、皆人も
同じその樹の陰に身を隠したり。磐余彦も
その樹に隠れましまして、坂の彼方の賊どもに
宣はく、「やよ、おのれらは何者ぞ! 名を名乗るべし!」
さりければ、矢はひたと止み、坂の上からぞろぞろと
益荒なる兵どもの影の現れ来しかども、
その中にいや丈高く、逞しく、眼の光
けはしく、髯を荒らましく生ふす大男ぞひとり
ありしかば、この大男、声高くして告げたるに、
「我は長髄彦、天つ神の孫と共にあり、
山止の国を治めたり。もしこの国を奪はむと
企てたらば、その思ひ其方に捨てゝ消え失せよ。
一足とても近づかば、うぬが命を失ふぞ。」
補足(本にはつきません)
・磐余彦:後の神武天皇。現代では「イワレビコ」の読みが定着しているが、ここでは日本書紀私記および古写本の訓に従って「イワアレヒコ」と読む。
・膽駒山:生駒山。奈良と大阪の県境にある。
・孔舍衞の坂:クヽサヱの読みは伴信友校蔵書の日本書紀私記および内閣文庫本の訓に従う。熱田本の訓はクサエ。私記や内閣本ではクサカという読みも紹介されている。
・山止:古語で、「止」は「居住」を意味するという。ヤマトの語源として、北畠親房が神皇正統記の中で紹介している説の一つ。本作では「山に住む人々の国」程度の意味。
・東:ヒガシの古い言い方。日向かし。
・ゆくりかに:突然、不意に、いきなり。
・栂の木の:「次々」にかかる枕詞。
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