
就職氷河期世代問題 -西洋史研究への影響
就職氷河期世代
ひとつの世代がみんな一緒に御入学し、御卒業し、御入社し、御退職する-、そんなモデルによって日本の社会は構築されている。このモデルが未だに続いているのは、それが管理(予見)しやすい社会を提供するからだ。
しかしこんにち、問題は、管理しやすいはずなのに、管理できていないところにある。
例えば、就職氷河期世代(現40代から50代)の問題だ。
彼らは第2次ベビーブーム世代であり、人口的に厚い層を形成している。
しかし若いときから踏んだり蹴ったりの人生をおくることを余儀なくされて、現在、社会的にも個人的にも、経済的にも精神的にも、へこんでいる。
いわゆる少子化は、この世代が子供を産まないことが原因だと、別言すればこの世代が結婚できないことが原因だと、されている。
また彼らは親の介護をする能力がないとも、言われている。
彼らの特徴のひとつは「自己責任」で物事を考える点にある。
彼らにとっては、社会も国家も存在しない。
もしも自分が苦しければ、それは自分の責任。
もしも自分が楽しければ、それは自分の手柄。
国家になにかを要求する気持ちも、社会への感謝の念もない。
また彼らを支配するのは「デフレマインド」である。
つまり節約を重視して、新しいことに挑戦しない。
費用対効果至上主義。
上をめざすリスクを避けて、横に逃げる。
時代の主流に異議を唱えず、唯々諾々小心翼々と自己保身に汲々とする。
要するに、勇気がない。
西洋史研究問題
そんな彼らが現役世代として、こんにちの日本の中心となっている。
その影響は社会のあちらこちらに及んでいる。
例えば、僕が専門とする西洋史研究。
西洋史研究の衰退は、おそらく就職氷河期世代の心性から、ある程度説明できる。
端的に言えば、現代社会を批判して政治にアンガジェする研究が姿を消した。
その代わりに感性がテーマになった。
そして「社会史」よりも「文化史」が主流になった。
研究者は社会の変革を志すことがなくなり、政治にも関心をなくし、趣味人になって、自分の技を極めることに専心した。
その結果、研究のタコツボ化が進んだ。
もちろんその結果、世界で活躍する日本人研究者は大量生産された。
(実際、大抵の日本の西洋史研究者は僕も含めて、外国語で論文の一本ぐらいは書いている。)
しかし日本の社会に対して〈攻めていく〉研究姿勢はきえうせた。
奇妙なことである。
日本で暮らして、日本の大学に所属して、日本人の学生に向かって、日本語で授業をしているのに、日本の社会問題を無視して、西洋史を学ぶなんて。
僕自身は日本の社会がまだ右肩上がりのときに、歴史学研究に人生を捧げようと決心した。
右肩上がりのパワーとは恐ろしいもので、このままみんながふつうに頑張れば、すべてのことは進歩して、いまよりも良くなるはずだと信じることができた。
例えば学閥だってなくなるにちがいないと信じることができた。
もちろん僕が甘かった。盲信であった。
攻撃せよ
それでも僕は、希望を胸に、果敢に猪突猛進、攻めていた日々を後悔しない。
悪いのは、僕ではない。
悪いのは、学界の構造である。凡庸な研究者が学閥縁故を頼って大学教員ポストをゲットする、それを許す構造である。
悪いのは、それを放置する教育行政である。
悪いのは、それを背後で支える日本人の学問に対する無関心である。
あるいは、保身を口実に何もしない怠惰な研究者である。
僕なんか、就職できない優秀な同胞のぶんも頑張ろうと思ったから、教授会で様々な問題を提起して、嫌われた。
そんな僕だが、実を言うと、いま、研究者仲間たちと、あるプロジェクトをすすめている。
日本人の戦争観に対して、西洋史研究者の立場から、〈異議申し立て〉をしようというプロジェクトである。
〈異議申し立て〉、つまり攻撃である。
そもそも攻撃とは、他者へのむきだしの愛である。
他者に自分の意思を強要する攻撃という行為は、自分のことを理解してほしいからこそ生まれる。
その背景には他者との「関係」を求める欲求がある。
もちろん強要される他者にとっては、それはヒリヒリと痛いことであり、傷つけられることかもしれない。しかし真の愛とはそういうものではないのか。
ひきこもりは愛を知らない。
しかしそもそも他者との「関係」を断つとは、エゴイズムである。
ひとり穏やかに平和のうちに、誰も傷つけず誰からも傷つけられず、ただそれだけ。まるで海の底の貝である。平和だ。静かだ。しかし何もうまれない。涙すらも。