僕の嫌いなもの
誰かが「自分が好きなものを語ると、おもしろい自己紹介になる」と言っていた。
そこで僕の「嫌いなもの」を語ってみようと思う。
軍隊
先日、自動車免許の更新に行って、とても疲れた。あまりにも疲れたので、マッサージ店に行った。マッサージ屋さん曰く「西願さんは、指示されるのに慣れていらっしゃらないのでは?」と。
確かに。僕は指示されるのに慣れていない。命令に服従するのが苦手だ。
自動車免許の更新に行くと、さまざまな指示(矢印・立つ場所・待つ順番など)がある。ぜんぶに黙従したので、疲れたのだろう。
そんなわけで軍隊という上意下達の組織が嫌いだ。
誤解しないでほしい。軍隊というものを否定するつもりはない。現代社会、軍隊は必要不可欠だと思う。ただ嫌いだ。
だから徴兵制の歴史を勉強した。
創設当初は徴兵制を忌避した人々も、忌避の理由をきちんと理論化できなかったため、最終的には徴兵制を受け入れていく様子が明らかになった。
戦争
僕は身体が丈夫ではない。だから夏は冷房、冬は暖房が必要不可欠だ。
とどのつまり僕は近代工業化社会の申し子だ。技術の進歩に敬意を抱く。
創造が好きで、破壊が嫌いだ。
困難を我慢強く知恵で乗りこえることが好きで、暴力的な解決に魅力を感じない。
だから戦争が嫌いだ。
だから戦争の歴史を勉強した。
戦争は当事者の利益だけでなく、また文化が賭け金になっていることが明らかになった。
ポストコロニアリズム
僕は被害者意識の強い人間が嫌いだ。
だからポストコロニアリストが嫌いだ。
人権宣言のおかげで、産業革命のおかげで、いまを生きているにもかかわらず、その人権宣言を輸出した人々を責め、貨幣経済や工業製品を輸出した人々を責めている。
怨恨のなかに生きる旧植民地を、可哀想とは思いながらも、好きになれない。
根暗なポストコロニアリストを見ていると、明朗快活な精神が萎えていく。
だから植民地戦争の歴史を勉強した。
19世紀前半までフランス軍は先住民族に比べて絶対的な強者ではなかったことがわかった。
21世紀のフェミニズム
僕は自信家が嫌いだ。
例えば、自分が可愛いことを自覚している女が、嫌いだ。
同様に、弱くて何が悪いとひらきなおって、自分を肯定している女が、嫌いだ。
自分のいたらなさへの不安が、他者を求めるのではないのか。
畢竟「おひとりさま」は「反社会的」である。
21世紀のフェミニストは「弱者の味方」で、「誰も傷つかない社会」を求めるのだそうだ。
僕が尊敬する20世紀のフェミニストのスローガン「強い女」は、もう存在しない。「強い女」を大切にした20世紀のフェミニストは、自分の弱さへの含羞があった。けれども己の弱さを超えようとする克己心こそが、実を言えば強さの源であった。
20世紀、僕は「強い女」に期待した。
獣のたくましさを持つパートナーと「ドンマイ」と声をかけあいながら慰めあいながら、共通の大義のために戦いたかった。戦闘経験豊富な女性には、(当然のことながら人間である以上、連戦連勝などはありえないので、大谷翔平だって三振することだってあるわけで)自分の過ちによって敗れた苦い経験に由来する謙虚さと優しさを感じる。だから惚れる。
しかし21世紀のフェミニストは、自らを「弱者」だと規定し、20世紀の期待を裏切った。
「弱者」は戦わない。というか「自分は戦う能力がない」と自己分析している。だから自分で自分を「弱者」と呼ぶのだ。そしてただ自分の特殊利益を他人に要求するエゴイストに化した。
しかし例えばフランス革命期、1789年8月26日の「人間と市民の権利の宣言」第1条には次のように書かれている。
「人間は自由で権利において平等なものとして生まれ、かつ生き続ける。社会的区別は共同の利益に基づいてのみ設けることができる」。
後段が重要である。「社会的区別は」みんなのために用いる能力があるかないか次第で「設けることができる」と書かれているのだ。つまりみんなのために多くのことをする能力のある強者と、無い弱者とのあいだには、区別を設けてもかまわないというわけだ。
この点を21世紀のフェミニストは忘れている。
そして自分が傷ついたか傷つかないかだけを判断基準に、他者を、社会を裁く。
主観の肥大化が著しく、自己反省機能が欠如している。
だから卑しい。
そもそも「共生」とは、他人を傷つけ、他人からも傷つけられるものではなかろうか。まるで寒さに震えるハリネズミのように、仲間と近づいて暖をとりたいのだけれども、近づけば、自分の針で相手を傷つけ、相手の針で自分が傷つく。
傷つくことから逃避する弱者は、他者を排除し否定する、心が狭いひとである。他者を必要としない、暴力的なひとである。だから嫌いだ。
そんなわけで「戦争と女性」を今後の研究課題にしようと思う。