
森鴎外と留学
文学者にとっては、おそらくよく知られた話である。
僕の専門ではないから、勘違いもあるかもしれない。
ただ「学ぶ」ということについて考えさせられる、ある話をしよう。
昔、なにかの本で読んだにすぎないので、参考文献の提示もできない。
でもそんな話が存在してはいけない理由もないはずだ。
漱石にとっての留学
森鴎外としばしば比較される作家に、夏目漱石がいる。
漱石は江戸っ子で、名主の子であった。名主というのは平民であるけれども、武士に近い仕事をしていた。それゆえエリート意識があったと思われる。
そんな漱石は、イギリスに留学して、日本人は西洋近代と如何に向き合うべきかを、ずっと考え続けた。誰から頼まれたわけでもないのに、彼は日本を代表する者として考えていた。彼の眼差しは、留学前も留学後もかわることなく、日本人のそれであった。その意味で、彼は留学経験によって、留学前は想像すらしていなかった、新しい何かを習得したわけではなかった。
鴎外の場合
鴎外は違った。
彼は石見国で生まれた。家は代々小さな藩の典医だった。
陸軍省に入ったが、そこでは薩長の人間がのさばっていた。実力もない輩が、薩長出身という縁故の力だけで、苦労もせず、立身出世をしていた。
小藩出身の鴎外にとって、立身出世のためには留学でもしてハクをつけるしかなかった。そこでドイツに留学した。
ドイツでの生活は、思った以上に気楽なものだった。石見人であることに、こだわる必要がなくなったからだ。実際ドイツ人の目からすれば、鴎外の出身が石見か薩摩か、関係なかった。彼はただの個人だった。だからドイツ人女性と恋愛できたのである。
ドイツ人との交流の中で、鴎外はドイツ人の価値観や生活習慣を自然と身につけていった。
いちいち日本人として、ヨーロッパの思想や文化にどのように対峙しなければならないかなんて、考えもしなかった。どうでもいいのだ、薩長の支配する日本など。
そうこうしているうちに、彼はドイツ人の眼差しを習得した。
帰国後、鴎外はあちらこちらの会議に招かれた。ある会議では、近代的な都市をつくりたい、例えばどの建物も同じ色と形をしたドイツのような美しい都市をつくるためにはどうしたらよいだろうかと尋ねられた。
鴎外はぶっきらぼうに答えた。ドイツの都市なんて個性がなくてつまらないですよ。むしろイタリアのヴェネチアみたいに、それぞれの家の色が違うような、そういう都市を模範にすべきではないでしょうか。
実を言えば、まさにこの意見こそ、ドイツ人的なのである。鴎外がどれだけドイツ人の眼差しを内面化していたかをあらわす一例であろう。
あるいは社交のやりかた。帰国後、鴎外はある種の文芸サークルをつくるのだが、そこに自分の妹を参加させた。ヨーロッパでヨーロッパ人がしばしばそうやっていたからである。
ところが日本の文学同好会では、女性、とりわけ近親者の出席は憚られるものであった。つまり鴎外先生、まったくもって日本的ではないのである。
ちなみにこのサークルは長続きすることなく自然消滅した。
受け入れ準備ができていないところに無理矢理、新しい何かを接木しようとしても育たない。それだけのことである。
僕の場合
30年前、僕も留学した。
フランス、パリである。
僕は東京のミッションスクール出身の、私費留学生だった。何の紹介状もなかった。
(パリの国際大学都市日本館に手紙を書いても返事さえ来なかった。あそこは東京大学法学部の留学生のためのものなのだと、あとから耳にした。)
でも僕は、パリ第一大学パンテオン=ソルボンヌという、フランス革命史研究のメッカ、世界の権威の扉を叩いた。
劉備玄徳だって三顧の礼をしたのだ、僕だったら10回くらい礼をしても仕方ないだろう、なんて思っていたら、二顧の礼で、世界的権威から弟子入りを認められた。嬉しかった。恩返しは、素晴らしい博士論文を書くことだと思った。
渡仏して6年後、博士論文の審査に合格した。
日本に戻った。フランスのさまざまな方法(研究の方法、議論の方法、食事の方法等など)は非常に合理的に思われたので、日本人にも教えたいという、ささやかな志とともに。
しかし教える前提には、学ぶ側の学びたいという意思が必要である。
もしもそれがないとしたら。
留学の未来
僕が若かった頃に比べ、こんにち日本人の西洋史研究者の留学はあたりまえになった。
ちょっと勉強すれば、世界の西洋史研究者の著作に引用されるモノは書ける。
他方、残念なのは、西洋史研究と日本社会との接点が失われたことだ。
日本人の西洋史研究者は、現代日本へのアンガジェを避けている。
その結果、日本の権威主義的な学界は、社会から見放され、滅亡への一途をたどっている。いま最も怯えているのは、その権威主義のおかげで現職をゲットしたひとたちだろう。