辞書の呪縛
「辞書に書いてあることは絶対」
この言葉を皆さんはどう考えますか?私自身はニュース翻訳の際の鉄則として、noteやtwitterで以前からそう説いてきました。
ただ「絶対」とは言いましたが、私はニュース翻訳の現場においてこの原則が「絶対」だとは言い切れない場面というのを度々目にしてきました。
辞書に書いてある言葉をそのまま訳語に当てはめれば、確かに解説を求められたときに「辞書に書いてあったので」という説明をすることができます。これはある意味「翻訳者としてのリスク回避」だとも言えます。
この考えを私は否定はしません。社内や組織内でどうしても弱い立場にならざるを得ない翻訳者にとって、このような「リスク回避」を考えるのは自然の流れと言えるでしょう。
しかし自分のリスクを回避することだけに目がいって、このような「辞書に書いてある語句」にいつもいつもこだわってしまうと、成果物がどうしてもグーグル翻訳っぽくなってしまったり、「AIが翻訳した文章」になってしまい、質の低いものになってしまったりする危険性もあります。
ならばどうすればいいか。より一段高いレベルの翻訳の成果物を作り上げる上で、ここから必要になってくるのはやはり「言い換え力」だと私は考えます。
ちなみに私は以前、「会話の中での言い換え力」について言及しましたが、それとは少々性質の違うものとなります。
会話における言い換えは自分の脳内で自己完結するものであり、ぶっちゃけ言いたいことと多少ずれていてもかまわないのに対し、翻訳における「言い換え力」は「相手に見せるものであり」、「いかに原意を崩さずに相手に理解してもらえるか」ということに主眼が置かれるからです。
その意味で今回の「言い換え力」とは、すべての翻訳文に「辞書に書いてある解説通りの訳語」をあてはめるのではなく、「原文のニュアンス」や「辞書の解説」の真意を理解した上で、その訳文に日本語として最適な類語を持ってくる作業、という定義を私はしたいと思います。
この作業、言い換えれば「翻訳者の責任で」やるものであるため、自分でリスクを負う勇気と自信を持たなければなりません。
どのようにしたらそのような「勇気と自信」を持つことができるか。そのように問われた時、私は「それは日々の中国語の語彙や文法に対して知識と造詣を深めることでしか得ることはできません」と答えるようにしています。日々の鍛練しかないのです。
◇◇
例文を挙げましょう。皆さんならこの文をどう訳しますか。
先日、この例文についてこのように訳文を目にしました。
ここで私が問題にしたいのは「背书」の処理方法です。中日辞書を引いて「背书」の意味を調べると、「裏書きする」という意味があるのが分かるでしょう。
しかしこの文にそのまま「裏書きをする」という訳を当てはめて、上記のような訳文を作ってしまうとどうなるか。
読者のほぼ全員が「何の意味?」という疑問を持ってしまうことになるでしょう。
なぜか。国語辞典で「裏書き」という日本語を調べてみると、主に以下の意味があります。
「裏書」はほとんどの場面においては、経済で使われる用語であり、今回の「福島原発の放射能処理水問題」という国際政治関連の記事の流れの中でこの言葉を使用しても、読者にとっては「なぜ経済用語?」という疑問点しか浮かばないのです。
いくら中日辞典で「裏書きをする」という訳語があったとしても、これをそのまま訳語に当てはめてしまっては、翻訳の際の鉄則「信」「达」「雅」の「达」(相手に伝わる訳文であるか)に反することになり、読者に伝わらない本末転倒な訳文になってしまうでしょう。
そこでGoo辞書をもう一度見るのですが、ここで最後に次のような解説やあります。
この解説を踏まえて、先ほどの記事の流れを見ると、「IAEA(国際原子力機関)は日本側の放射能汚染水が無害であることを証明した」という解釈ができると私は判断しました。ここから置き換え力を発揮し、「お墨付きを与える」という訳語をひねり出したのです。
「お墨付き」は、「背书」の訳語としてはどの辞書にも出てきません。「お墨付き」に対応する中国語としては「授权」の方がより近いかもしれません。しかし、先ほどのロジックを信じて、私は勇気をもって「お墨付きを与える」と言う言葉を訳語に採用しました。
「ちがうじゃないか」という声も聞こえてきそうですが、ニュース翻訳という、翻訳する時間が限られた中で下したこのような判断は正しかったと今でも私は思っています。
◇◇
どうでしたでしょうか。
このような直訳と意訳の間のせめぎ合いを毎日している翻訳作業はある意味楽しいものでもありますし、日々成長している実感も持てます。皆さんも一段上の翻訳文を目指す上で参考にしてみてはいかがでしょうか。