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ニッ記

築〇〇年の人間生活を営むと多少なりとも日々の「気付き」が生じてくる。
この気付きの一つを日記として、この場に留めておこうと思う。

人間は学習する生き物である。
私は日々、何かを学習して物事に意味を付与したいと企んでいる。
ただ、こうやって意味の後付けを繰り返すと唐突なニヒリズムに襲われるのだから自分という人間は極めて厄介だ。

ある日、私は日々を過ごす中で、どうにもこうにも感情をコントロールすることが人一倍苦手で気分が落ち込みやすいということに気付いた。
誰かの悲しみが自分ごとのように降り注ぐこともあれば、誰かの悪意に触れて防ぎようのない苦しみに苛まれることもある。
でも、それは傲慢に過ぎなくて私が分かったようでいるつもりの誰かの感情は全くの間違いなことは十分に有り得る。
誰かの感情は推し量れないと同時に私たちは何処までもATフィールドを張っているのだと解釈をして自己と他者の境界線が非常に鮮明に見えてしまうこともある。
そして、この研究をしていく内に私は人より感受性が高いのだと知った。

幼い時の経験で自己の非によって招かれた絶望が他人の優しさを誤魔化してしまうみたいで、とても恐ろしかったのを覚えている。
絶望の色は、あの日見た遊園地のうさぎの着ぐるみの中から少しだけ覗いていた肌色に似ていた。

ある日、訪れた遊園地で目に映る景色の全てに心を奪われてしまった私は両親と繋がれていた手を離してしまった。
途端に、彼らを見失った私は迷子児となり一人で彼らの捜索を開始した。
その時、先程まで見ていた愉快なキャラクターが吸い込まれていた簡易テントが目に入った。
彼らならば何故か私の捜索を助けてくれるような気がしたのだ。
白いテントを目掛けて進む私は何かの主人公になったつもりで遊園地は人類の最大の発明だなと思った。
恐る恐る手を伸ばしてテントを触る。
分厚いブルーシートの先には、うさぎの頭と胴体の間から覗いた肌色があった。
そこで思考がショートしてしまったのを鮮明に覚えている。
私の体は硬直して現実が上手く飲み込めない。
私が描いていた、そして遊園地が見せていた理想郷を壊してしまった気がしたのだ。
圧倒的な自分の非で絶望に染めてしまった視界の先が何よりも恐ろしくて堪らなかった。
理想郷を壊した私は壊した事実よりも壊した先に見えた景色に傷付いていて自分で壊したくせにと責められる気がした。

しかし、あの時のうさぎはニッと笑っていた。
正しくはニッという声を漏らしてしまっていた。
若い男の人の声でニッ、ニッと精一杯に声を出しながら、うさぎは大きく身振り手振りを使って私を励ましていた。
禁忌を犯さないように彼なりの判断で咄嗟に出たニッは滑稽で素晴らしくエンターテイメントだった。
私は、この時の絶望をニッと記して記憶に閉じ込めている。

成長する度に絶望の種類は増えていく。
どの絶望も突然思い出しては苦しめられてしまうけれど私は絶望の筆頭であるニッで紛らわしている。
当然、紛らわせないこともあるし紛らわせないことの方が多いけれど私の体験はふと絶望の視点を変えてしまうこともあるのだと証明してくれた。
彼の柔軟な対応と高いエンタメ性は大前提として案の定、私はあの適当な掛け声に救われているし世界は案外、もっと単純で感情的なものに救われているのかもしれない。

感受性が高くて良かった。
梶井基次郎の檸檬は私の脳内で今も爆発を繰り返している。
根拠のない自信の一つや二つ、持っていてもいいのかもしれない。
だって、根拠のないおまじないに助けられている人もいるのだから。

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