知ろうとしない無邪気さ 20240706
先日、映画「ルックバック」を観てきた。
感想としてはとても良い映画だったという感じ。
表題の件について。
ルックバックには現実のある事件を強く反映させた描写がある。
原作の漫画が公開された時点で相当な賛否両論があった様だが漫画に疎い自分はそれをあまり気にしていなかった。
というか、自分のテリトリーの外で行われている議論だなと判断してしまっていた。
今回映画を観るにあたってその議論のログを読みなるほど確かにこういう見方もあるよなと自分の中で一定の整理をつけたつもりでいた。
そして映画を観て私はひとりぼろぼろと泣いていた。
漫画の、映画の向こう側に透ける現実をどう腹落ちさせるかどうかの前に目の前に映し出されるシーンの一つ一つに打ちのめされていた。
それは鑑賞体験として間違っているとは思っていない。
ただ腹に一物抱える様な感覚が残る。
本当に感動したのひとことで済ませて良いのだろうかと。
人はそこに問題が隠れている事に気が付きながらそれを知らない、見ない様にして無邪気に振る舞おうとするきらいがある。
今2024年7月現在、東京は都知事選の真っ只中だ。
誰に投票せよ、という様な話がしたい訳ではない。
ただ、冷静に考えて今回の主要候補は現職とその対抗馬の二つに絞られる。
これは客観的事実であるし、異論はないだろう。
つまるところ、ここまでの8年間を維持するかしないかという選挙だ。
先ほど誰に投票せよという話をしたい訳ではないと書いたが、私は迷わず対抗馬に投票した。
様々な争点があるのだろうが現職の歴史修正的なスタンス、レイシズムにも近いその感覚が圧倒的に許せないからだ。
関東大震災時の朝鮮人虐殺を「諸説ある」として頑なな人間をこの国の首都、私の住む東京のトップに据え置いてはいられない。
ただこの一点で投票先を決定した。
しかしながら私のこの選択に至るまでのプロセスに幾許かの欺瞞があるのではと思い直している。
例えば神宮外苑の再開発の問題。
これについてよく分からない。
第三候補と言われる元地方首長の何が問題か。
問題のある人物だなとなんとなく判断はしているけど実際のところ何が問題なのか理路整然と説明ができない。
何より現職に投票するであろう多くの人々の動機がまるで分からない。
これらの分からないを自分の判断を正当化しようとするあまり知る努力を放棄しているのではないかと感じるのだ。
そして多くの大人がそうであると肌で感じている。
例えを挙げていこう。
最近は何でもかんでもハラスメントになる、生きづらい世の中だ、とか。
自民党は色々問題がありすぎ、でも野党には政権は任せられないよね、という暴力的なコンセンサス、とか。
最近の若い者の考えは理解できないよ、とか。
あの映画を批判している連中は批判する事に満足しているんだよ、とか。
世の中全てを把握する事はできない。
でも自分にとって都合の良い言説や事実だけを頭に入れこんでしまう事はないだろうか。
私にはそういう様なことの覚えがあまりに多過ぎる。
自分なりの意見を補強せんとするあまり、対岸の意見や物の見方を蔑む様な態度を心の中で取ってしまっている気がする。
自分にとっては理解する必要のない何か、知る必要もない何か、取るに足らない騒音として処理してきた情報をそのままにしておいて良いのだろうかと何故か急に顧みている。
大人は狡い。
でもそれは強かってこと。
みたいなクソな美学に酔ってないだろうか、と最近感じることが増えた。
実際問題何かに意見を持っていてもそれを表明するかどうかは自由だ。
意見を表明しないからといって、何も意見がないというのは余りにも暴論である。
もちろん、意見を表明できない環境だって存在している。
だのに、多数派に流れる人々を見下す様な感覚が自分の中にあるようで気持ちが悪い。
自意識過剰と言われればそこまでなのだが、なんだか歳をとるにつれて年々大人という枠の歪さに頭が馴染んでいきそうなのを必死で拒んでいたいのだ。
まとめるとつまりどういう事なのだろう。
ポジションとして常にフラットでありたいのか。
多様な意見を認める善なる者でありたいのか。
はたまた単純に賢いと認められたいのか。
まるで分からない。
とにかくモヤモヤしている。
今日はここまで。